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「死ぬまでムチ打つぞ」タリバンに脅された日本人“恐怖の一夜”

「殺されるんじゃないか」眠れぬ一夜

1998年当時、男性はヒゲを生やすことを義務づけられていた。洋服を着ている者はいなかった

1998年当時、男性はヒゲを生やすことを義務づけられていた。洋服を着ている者はいなかった

 すべての荷物の検査が終わったとき、タスミン氏はピクピクと怒りに打ち震えながら私に告げた。 「カメラは持っていてもいい。しかし……人間だけじゃない。植物以外、生き物すべて撮ってはいけない。絶対にだ」 「撮るとどうなるのですか」 「死ぬか生きるかわからないぐらいまでムチ打つ。そして牢獄行きだ。永久にだ」  これ以上タスミン氏を怒らせてしまうと、突然私刑を振るわれて命を失ってしまうような、そうしたまがまがしい雰囲気があった。タリバンは常に武器を所有している。ムチで制裁しなくても、やろうとすればいつでもやれる。  結局その晩、ホテルに帰されることはなかった。「暗い夜道を帰るより、ここに泊まっていけ」という言い分ではあった。それが親切によるものなのか収監目的なのか、私は真意を測りかねた。その晩は「殺されるんじゃないか」という考えが頭から離れず、不安な夜を過ごしたのだった。

目撃した“恐怖支配”の一端

1998年当時は、アフガニスタンで顔を出している女性をひとりも見ることがなかった

1998年当時は、アフガニスタンで顔を出している女性をひとりも見ることがなかった

 その後、私はカンダハルからカブールへ陸路で移動して数日をすごしたのち、さらに陸路で東にあるパキスタン国境を目指した。カブールのバスターミナルで、150km東にあるジャララバードという都市へ向かう乗り合いのミニバス(ワンボックス)に乗ろうとした。  ミニバスに乗り込もうとしたときだ。薄汚れたブルカの女性たちに取り囲まれ、身体をぐいぐい引っ張られた。隙あらば荷物を盗もうという、必死で乱暴な手つき。暴力を振るおうとしていないことは明白だったが、あちこちから引っ張られたときは、顔が見えないだけに、いっそうの恐怖を感じた。  なんとか乗りこんだ後も、ミニバスはなかなか発車できなかった。ブルカの女性たちに取り囲まれ、車体をバンバン叩かれたり、窓ガラスから手をのばされたりしたからだ。  約10日間のアフガニスタンの旅で私が成人の女性と接近したのはそれきりだった。子どもを除く女性たちは全員がブルカを着用していて、顔すら見ることがなかった。  そのミニバスがジャララバード手前にさしかかったときに検問があり、いったん車外へと降ろされることになった。当時ビン・ラーディンが匿われていた場所に程近いポイントだったためか、その検問での荷物検査は大変厳しいものだった。ひとたびタリバン兵士が私のカメラを見つけると、銃を突きつけてきた。そして、カメラを放棄するように命令をしてきた。  そのときは、たまたま英語の話せるアフガニスタン人の新聞記者がそばにいて取りなしてくれた。彼がいなければ、タリバン兵士の虫の居どころ次第によっては、銃で撃ち殺されていても不思議ではなかった。
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タリバンが“怖い存在”というのは本当なのだろうか?
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中国の「爆速」成長を歩く

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