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「死ぬまでムチ打つぞ」タリバンに脅された日本人“恐怖の一夜”

アフガニスタン入国直後、銃を持った男に連行される

1998年当時のカンダハル(アフガニスタン第二の都市)は、街中がガレキ状態。建物にガラスはなく、ビニールがはられていた

1998年当時のカンダハル(アフガニスタン第二の都市)は、街中がガレキ状態。建物にガラスはなく、ビニールがはられていた

 話を1998年に戻そう。  そうしたタリバンの所業の数々を知ったうえで、私は沢木耕太郎著『深夜特急』のルートを辿るという取材、そして行方不明になった日本人大学生の捜索のためアフガニスタンへ出かけた。1998年の4月末のことだ。  アフガニスタンの南側にあるパキスタンとの国境を超え、第2の都市カンダハルに近い国境から入国した。  私がタリバンに連行されたのは入国したその日のこと。宿にチェックインし、日本人行方不明者のポスターをほかの客に見せていたところ、ひとりの男にいきなりそのポスターを乱暴につかみ取られ、ビリビリに破られてしまった。  それからほどなくして、カラシニコフ銃を担いだ男が現れた。その銃を持った男に促され、私は荷物を持ち、日本製のランドクルーザーに乗り込まされた。  真っ暗闇の町の中を5分か10分。連れて行かれたのは、蛍光灯がついた横長の公民館風の平屋。ここは警察署だろうか。民族衣装を着た30~40代の男たちが5、6人、表情一つ変えずに代わる代わる質問してきた。英語に通訳をするのは、20代前半と思しき男。背が高く、同じく民族衣装を着ていた。彼は「タスミン」だと自己紹介した。 「いつカンダハルへ来たのかね?」 「一人でか?」 「期間は?」  パシュトゥン語による男たちの矢継ぎ早の質問を、タスミン氏が逐一英語に訳してくれた。私は極度に緊張しながら、口に全神経を集めて慎重に英語で答えた。

タリバンの「荷物検査」に戦慄

 30分か1時間ほどで事情聴取が終了。タスミン氏の手引きで、再びランクルに乗せられる。  これで帰れるのかと思ったら、違っていた。タスミン氏が運転する車が停まったのは、元いた宿の前ではなく、モスクのような建物の前だった。中に入ると、お祈りをする場所なのか、20畳ぐらいのじゅうたん敷きの広間になっていた。 「じゃあ、荷物検査を始めさせてもらうよ」  タスミン氏の言葉を聞いて、私は戦慄した。  ドイツのジャーナリストが撮影していて捕まり、しばらく投獄されたり、テレビクルーが高価な機材を没収・破壊されたりという事例を聞いていたからだ。自分も何らかの危害を加えられるかもしれないとおののいた。  ザックの中にはカメラ3台にレンズ3本、フィルム50本が入っていた。一つ一つ衣服で慎重に包み込んで底に隠していたが、それは無駄な抵抗だった。  案の定、タスミン氏はすぐに服の不自然なふくらみに目をつけて金属の固まりを発見。すぐに一眼レフカメラのボディを取り出して見せた。私はバツが悪く、うなずくしかなかった。  カメラが一つ見つかると芋づる式だった。タスミン氏は衣服の固まりの中からカメラやレンズを次々と見つけては並べて見せた。カメラを発見するごとに彼の表情は笑みが薄れ、だんだんと怒りを帯びてきた。
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「殺されるんじゃないか」眠れぬ一夜
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