専業主婦が子連れで海外移住。苦難の連続、現地でパラレルキャリアを実現するまで
記録的な円安、物価高の影響で賃金が目減りするなか、日本を離れて海外で就職することや、出稼ぎを検討する人が増えている。とはいえ、言葉も文化も違う土地で生活し、仕事で成功することは並大抵の努力ではかなわないだろう。では、その秘訣はいったい何なのか。海外に根を張りたくましく生きる日本人の姿から、学べることもあるかもしれない——。
そもそも、彼女はなぜウィーンを訪れたのだろうか。
2007年の夏。バイオリンを習っていた長女が、日本で開催されたウィーン国立音大教授の講習会に2年続けて参加し、教授に「ウィーンに来るべきだ」と勧められた。そしてその教授のレッスンを受けられるウィーン国立音大の予科に合格、ウィーンに留学する娘に帯同してきたのだ。
その当時、長女は小学3年生。しかも娘だけではなく3歳年下の長男も連れて、小さな子供2人を抱えて知らない土地に引っ越してきたのだ。
様々な葛藤もあったのは事実だが、みずもさんはこう考えた。
「子供たちが素晴らしい環境で好きな音楽を学べることはめったにないチャンス。いずれドイツ語も習得できるはずですし、ウィーンでの多くの経験が将来、子供たちにとって財産になると思ったんです」
そしてなにより長女が「やってみたい」と言ったことがウィーン行きを決めた大きな理由だったという。長年、専業主婦として生活していた彼女にとって人生の大きな転機だった。
言葉も通じないなか、住居や長男の幼稚園・小学校まで探さなければならず、それは困難を極めた。
日本の会社に勤める夫は残してウィーンに来ることになった。仕送りがあったものの、1ユーロ=200円ほどの円安の時代。予算内で借りられる物件は限られていた。最初の住まいは3人で1部屋、そしてネズミが駆けずり回ってキッチンの全てを食い荒らすようなところだったという。
みずもさんは当時の生活をこう振り返る。
「大家さんとやりとりしながら、通販でネズミ退治グッズを注文し、あちこちに罠を仕掛けました。子供たちが朝起きる前に確認すると、必ずと言っていいほどネズミがかかっていて、泣きながら処分しましたね」
それだけではなく、「大家さんが合鍵を持っていて、子供たちがいない時間を見計らったように様子を見に来ていたのも本当に気持ち悪くて嫌だった」という。
今のようにスマホの翻訳アプリで言葉の意味を調べられなかった時代である。学校で配られたプリントを理解するのにもひと苦労。辞書に載っているドイツ語ではなく、“ウィーン独特の表現”で書かれていたのだ。
現地に知り合いはひとりもおらず、道端で親切そうな人に「すみません、息子の幼稚園にこれが必要みたいなんですが」と声を掛け、内容を教えてもらうこともあったそうだ。とにかく毎日が必死だった。
“音楽の都”として知られるオーストリアの首都・ウィーンにて国際空港の広告に起用されている日本人の女性がいる。
ここは国連本部もある国際都市で音楽家や研究者、現地のオーストリア人との婚姻や外国人配偶者の赴任で来る日本人も多いが、今回紹介する島みずもさん(49歳)はそのどれにも当てはまらない。
紆余曲折を経て、彼女は現在、時代の最先端をいく会社に勤めている。いかにしてゼロから自分の居場所を築き上げたのか。
「専業主婦」に大きな転機、新天地ウィーンへ
「ネズミが駆けずりまわる」ワンルームアパートメントでの生活
2004年よりウィーン在住。うち3年ほどカナダ・オタワにも住む。長年の海外生活と旅行会社勤務などの経験を活かし、2007年よりフォトライターとしても多数の媒体に執筆、写真提供している。著書に『カフェのドイツ語』(三修社)、『芸術とカフェの街 オーストリア・ウィーンへ』(イカロス出版)など。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」会員。
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