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伝説の“ヤマンバ”ギャルモデルの波乱人生、ブーム終焉後は“銀座ホステス”としてナンバーワンに

ヤマンバブーム終焉で仕事激減、絶体絶命のなかで見つけた新たな道

 しかし、人気はそう長くは続かなかった。渋谷では美白を追求した白ギャルブームが本格化。ウインドウに飾られるマネキンの色は黒から白となり、街に溢れていたヤマンバは徐々に減っていた。  その余波であぢゃさんの仕事は激減。当時25歳だった。手に職もなければ、やりたいこともない。これからどうしていこうかと焦っている最中、中学時代に亡くした母の言葉を思い出す。 「“自分の個性を生かした仕事をしてほしい”って母に言われたことがあったんです。それで私って喋りは得意だよなと思って。喋れる、飲める……ホステスじゃん! って」  実家がクラブを経営していることから、時折店を手伝うこともあったという。ヤマンバ姿で登場するとその場が盛り上がり楽しかった。そのときの経験もあり、これなら続けられると確信したそう。

体型や容姿をイジられることも。ホステスとしての苦難と成功

ホステス

ホステス時代のあぢゃさん(提供写真)

 ホステスは天職だった。中野から夜の世界へ足を踏み入れたあぢゃさんは、店を転々としていき、最終的に銀座の高級クラブにまで進出。トップレベルのホステスが揃うなかで、なんとナンバーワンの座についた。  とはいえ、いくら天職だとしても、成功までの道のりはそう簡単なものではない。あぢゃさんは当時をこう振り返る。 「いやー大変でしたよ! だってみんなお人形みたいな見た目なんだもん。私なんか初めお客さんから馬鹿にされてたんですよ。歩き方はガニ股だわ、敬語も全然知らないわで。そんなんだからヘルプでも席に呼んでもらえないんですよね。私の顔を見るなり『こんなの呼んでない!』って突っぱねるお客さんもいたりして」  ホステス業界では異端だった。喋れて飲めても席に呼ばれなければ意味がない。焦りを感じた彼女は、人の心を掴む気配りや立ち振る舞いといった水商売のイロハを必死に勉強し、自身の最大の個性である“喋り”を活かせるように励んだ。 「謙譲語と敬語を勉強したり、お客さんの会話や好きな飲み物を全部メモしたりして、もう覚えることがたくさんあって。でもそうするとお客さんもだんだん信頼してくれるようになるんです。人脈が広がって、指名される機会も増えていきました」  なかには体型や容姿をイジリ、わざと傷つけてくる客もいたという。あぢゃさんはそんな客さえも持ち前の明るさと磨き上げたトーク力で虜にしていった。 「いろんなお客さんがいるんですよね。お金持ちなんて何も苦労してねーんだろうな!とか思ってたけど、お金持ちはお金持ちでいろんなことがあって病んでたりして。いろんな人の話を聞けて勉強になることばっかりでしたね。ホステスの仕事は超楽しかったです」
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現在は二児の母に
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1994年生まれ。リアルサウンド編集部に所属後、現在はフリーライターに。『リアルサウンド』『日刊サイゾー』などで執筆。またnoteでは、クォーターライフクライシスの渦中にいる20代の声を集めたインタビューサイト『小さな生活の声』を運営している。

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