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「ボキャブラ天国」「電波少年」で活躍した50歳芸人の今。“統合失調症”でテレビから消えて20余年「人の人生は終わったところで始まる」

両親ではなく自分がやりたいことをやりたくて大川興業に所属

相方の松本キック氏と「松本ハウス」を結成

最初は楽しかったグループホーム暮らしだったが、焦りがわいてきた。 「どうやって社会に出たらいいのか焦り、人生を振り返りました。それまでは両親が願う子になろうと考えて生きてきました。だから、これからは自分がやりたいことをやろうと考えた結果、漫才師になろうと思いました」 そこからは、ダウンタウンが活躍して育った「心斎橋二丁目劇場」に行ったり、大阪で吉本や松竹の劇場を回ったりした。漫才師になるために、オーディションも受けた。 「オーディションで、大川興業の大川総裁(大川豊氏)に拾ってもらいました。自分達でネタをやるまで、少なくとも半年間は “坊や” 扱いでした。同期には、江頭2:50の相方のコンタキンテなどがいました」 1991年に「松本ハウス」を結成し、テレビで活躍することになるが、順調だった芸人生活にも病気が影を落とす。

自己判断で断薬し、統合失調症診断を受ける

「先輩に“弱いから薬を飲むんだ”と言われ、服薬が弱さの象徴のように思えました。断薬し、具合が悪くなると服薬するという悪循環にハマりました」 自己判断による断薬で、1999年には、幻視が酷くなる。 「当時は、4階に住んでいたんですが、部屋に大きな窓がありました。隣の窓のフェンスから、スナイパーが銃を構えて見えたんです。仕事には行っていましたが、大遅刻したり、ワンワン泣いたりするような状態でした。母に連絡をすると、“あなたは入院したほうがいい” と言われました。だけど、仕事もうまくいっていたので、入院を過度に恐れていました。具合は悪いし、憔悴しきっていました」 そして、2000年に、精神科病院に入院することとなる。初めて、統合失調症の診断がつき、芸能活動を休止した。 「“やっぱりね” と思いました。今から思うと、中学校時代から聞こえていた声も幻聴だと分かりますが、当時は分かりませんでした。本当に聞こえているわけですから」
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芸人としての活動を再開するも
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立教大学卒経済学部経営学科卒。「あいである広場」の編集長兼ライターとして、主に介護・障害福祉・医療・少数民族など、社会的マイノリティの当事者・支援者の取材記事を執筆。現在、介護・福祉メディアで連載や集英社オンラインに寄稿している。X(旧ツイッター):@Thepowerofdive1

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