名物映画館も消滅…新歌舞伎座の脇に佇む最古の地下街を歩く
「震災を機に、この土地を持っている東京都がさ、耐震性がどうのこうのって言ってきたらしくてね。それで、ここで一番大きい(テナントの)映画館が『立ち退きます』って言ってハンコを押しちゃったわけ。映画館がハンコ押しちゃったらもう、ウチらもおしまいだよ」
「現存する最古の地下街」として知られる東京・銀座の三原橋地下街が、約60年の時を経て閉鎖へ、カウントダウンが始まった。この“最古の地下街”は、晴海通りと昭和通りが交わる三原橋交差点の脇、東京メトロ日比谷線の東銀座駅から続く地下道の直上に存在する。晴海通りを地下で横断するように形成された100mほどの東京都の“公道”に、映画館や飲食店、理容店などが並んでいた。
4月2日に開場した新歌舞伎座とは、わずか200mほどの距離にある、この“最古の地下街”。所有する東京都などは震災後、耐震性や防災上の観点から、こうしたテナント類の道路占有許可について更新を断った。そして最も大きい施設である銀座シネパトスが3月31日に撤退。地上の新たなランドマークの影で、地下の“戦後”が消えることになったというわけだ。
◆消える赤提灯に鎮魂歌……
冒頭の嘆きは、この地下街にほのかに灯る“赤提灯”の常連客から出た言葉。“最古の地下街”に入る映画館は、東京では「ギンレイホール」(飯田橋)、「早稲田松竹」(高田馬場)などと同様の名画座、「銀座シネパトス」が入っていた。が、このシネパトスも耐震性などの問題から閉鎖を余儀なくされ、3月31日で歴史に幕を下ろした。
三原橋地下街の歴史は、戦後の闇市などにみられた露天商などを、「三原橋」の下に集めたところから始まる。その名のとおり、もともとここは川に架けられた橋だった。三十間堀という、江戸時代に築かれた川に架けられた橋で、このほかにも真福寺橋・豊蔵橋・紀伊国橋・豊玉橋・朝日橋・木挽橋・出雲橋などが存在していたが、三原橋以外は戦前・戦後に消滅。三十間堀は戦後のがれきなどで埋められて消え、都などは堀沿いや沿道の露天商を橋の下に集めたという。
いま、三原橋地下街を歩くと、その名残を発見できる。天井に見事な鋼鉄のアーチ。これこそが三原橋を川のたもとから見ている光景と同じ、三原橋の骨格なのだ。「あの天井のカーブがさ、三原橋そのものなのよ。耐震性についてもね、映画館の館内に渡された大きな梁が問題視されたっていうよ。たわんじゃって何度も直したっていうしね」と、赤提灯の初老の常連客は言う。
三原橋地下街は、東京オリンピックを機に、再び“お役所事情”に巻き込まれる。晴海通りを走る都電に代わって、営団地下鉄日比谷線を通すという突貫工事だ。いま、地下街で耳をすますと、聞こえてくるガタゴト音……。(シネパトスで映画を観ると、椅子を揺らす振動と、このガタゴト音が「名物だった」)。晴海通りに沿って走る日比谷線の足音が、地下街の直下から聞こえてくるというわけだ。
地下街を残すかたちで日比谷線を通したからか、東銀座駅と銀座駅を結ぶ地下道は、三原橋地下街の直下で、一段下がる構造になっている。こうした“ちょっと厄介なつくり”も、現代のバリアフリーの流れや防災上でネックになったのではないか。
1952年にできた三原橋地下街。名画座をはじめ、理容店や飲食店が次々と撤退し、わずかに灯る、赤提灯も消えかけている。「できるかぎり店を続けたい」と主は話すが、灯りを落とすのは4月か5月か、はたまた……!?
⇒【写真】https://nikkan-spa.jp/?attachment_id=414508
戦後から続く“最古の地下街”の最期を、いま記憶に残すなら、地上の晴海通り・三原橋地下街・メトロ日比谷線の“3層”をゆっくりと歩きながら、“五感”をフルに働かせて切り取りたい。名画座の残り香、レンガの手触り、地下の匂い、赤提灯のおでんと鎮魂歌、そしてついさっきまで残っていたはずの昭和が、垣間見えるはずだ。 <取材・撮影・文/大野雅人>
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