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ケン・シャムロックがWWEと3年契約――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第247回(1997年編)

 シャムロックと新日本プロレスのコントラクトは“1年4試合契約”とされ、年内は4.12東京ドーム、5.3大阪ドーム、8.10ナゴヤドームの3大会出場が確定的とみられていた。  それまでシャムロックが所属していたパンクラスは、同団体とシャムロックの現行の契約は有効として、シャムロックと新日本プロレスの両サイドに対して内容証明付きの警告文を送付した。  シャムロック自身はフリーの立場で日本の総合格闘技団体(PRIDE)、日本のプロレス団体(新日本プロレス)、アメリカのMMA団体(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ=当時はSEGが運営)の3団体で活動することを希望していたとされるが、シャムロック側と各団体間で契約内容の解釈をめぐりトラブルが発生した。  このとき、シャムロックが当初のプランどおり新日本プロレスのリングに上がっていたとしたらという“IF”について考えてみるとひじょうに興味ぶかい。シャムロックの欠場が決定すると、新日本プロレスはこの試合がプロ転向のデビュー戦となる“元柔道世界一”小川直也を4.12東京ドーム大会のメインイベントに急きょ起用。ここで橋本と小川が運命的な出逢いを果たした。  橋本と小川のシングルマッチは、それから10年間、日本のプロレス界がたどった道を暗示するかのようなヘヴィーで暗い試合だった。高田延彦対ヒクソン・グレイシーの初めての一騎打ちが実現したのもこの年の10月11日だった。  1964年2月11日生まれのシャムロックは、このとき33歳。プロレスラーとしてのデビューは1988年で、フロリダの“マレンコ道場”でUWFスタイルの特訓を受けて第2次UWFのレギュラー外国人選手となったのが1990年。UWF解散後はプロフェッショナル・レスリング藤原組に移籍し、その後、1993年に船木誠勝、鈴木みのるらとともにパンクラスの発足メンバーに名を連ねた。  シャムロックは“かもめのジョナサン”になるはずだった。ジョナサンはより速く、より高く飛ぶ術を習得しようと試みた一羽のかもめ。異端児として群れから追放されてしまうが、放浪の旅のなかでほんとうの自分を見つけ、やがて“そこ”よりも広い世界があることを仲間たちに伝えるためになつかしい浜辺に舞い戻ってくる。『かもめのジョナサン』は1970年代のはじめに世界じゅうでベストセラーとなったリチャード・バックの小説である。
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