部下が仕事でミスったら、怒りをどうコントロールするか?
――デカルトの「精神の外交術」に関連する例として、この本の中には「部下が仕事でミスをしたら」という例が登場します。もしオレンジジュースを100本発注するところを1000本発注してしまったら上司はどうするか、と。
津崎:この例で私が言いたかったのは、マイナスの感情をどうコントロールするかということです。怒りや妬み、恨みや悔しみ……こういった感情は決して無意味ではないんだけども、できることならあまり感じたくないものです。ここが重要なところで、マイナスの感情にも意味があって、その感情のおかげでよりよく生きることができる。だからあったほうがいいんだけれど、度が過ぎると問題になる。そこで、部下がミスをしたら、普通は怒りというマイナスの感情が出てきますね。では、なぜこの感情をコントロールすべきかというと、部下を守るためではありません。部下を殴りそうになった自分を守るためです。部下を殴ったら後で必ず後悔するから、そうなる前に怒りをコントロールする。だから、デカルトの考え方には、すごく自己本位なところがある。
津崎:でも、自分のことを大切にできない人に他人のことを大切にすることができるでしょうか?あの例とともに紹介したデカルトの考え方は、一見すると「部下に優しくして、争いごとのない職場環境を築きましょう」という、ぞわっとするような甘ったるいスローガンに見えるかもしれません。でも、全然そういうことではなくて、後で自分が後悔するようなことは避けよう、ということです。後悔しない人生のほうが良いに決まっているんだから、どうすれば怒りをコントロールできるかを考えたほうがいいんです。そのためにも、「超」自己本位で「超」自己愛に満ちた生き方をする。つまり、僕らの自己愛はある意味で中途半端なんです。中途半端だからこそ、その悪しき側面が出てくる。そうじゃなくて、徹底的に自己本位を貫けば他人を大事にできるようになる……これがデカルトの教えだろうと思います。
――そこでデカルトが持ち出すのが「高邁」(genereux)というキーワードですね。
津崎:そうです。高邁というのはほとんど使わない日本語で、僕もデカルトの翻訳で初めて知った単語です。これは「大度」とも訳されて、そっちのほうがわかりやすいかもしれないけど、度合いがすごく大きいってことなんですね。溢れそうなくらいに満タンな状態を指します。それでは、何が満タンかというと、一言でいえば精神の使い方です。その具体例には色々あって、子育てであるにせよ親の介護であるにせよ恋人との関係であるにせよ、私たちは毎日いろんな活動をしているわけだけれども、身体だけではなく常に精神を働かせているわけです。そして、その精神の働きを最大限にするのが「高邁」ということですね。
――常に何か考えを巡らせているというのはくたびれそうですけど、デカルト的にはそこにメリットがあるということですか?
津崎:なぜ精神の働きを最大限にするべきかといえば、そうすることによって満足感が得られるからです。ただ、ここで重要なのは、許容量を超えてしまっては絶対にいけないとうこと。だから「デカルトは意外と『休む』」ということで、休息が大事になってくるんです。自分を愛するというのも精神の働きの一つですが、自分を愛する度合いが足りないせいで、中途半端に人に優しく接してしまったり、中途半端に意地悪してしまったりする。でも、自分を徹底的に、つまり最大限に愛せるようになると、にわかには信じられない人間が出てくる。つまり、礼儀正しくて、愛想がよくて、誰もが友達にしたいと思うような人間です。
――デカルトにとって高邁さが重要なことはわかったんですけど、そこまで完璧な人間なんてこの世にいるのかと思えてくるんですが……。
津崎:たしかに高嶺の花みたいなところはあるんだけど、スポーツ選手はそれを実現できているんじゃないかなと思っていて。スポーツ選手が日々自分の限界に挑戦して、全力を出し切る姿は非常に清々しいものがありますよね。それは試合に負けた人にも感じます。もちろん悔しさを感じてはいるんだろうけれど、そこには湿っぽさがない。あるいは引退会見時の清涼感もそうです。あの思い切りのよさはどこから出てくるのかということですね。うまくいかなかったとき、普通は「あいつのせいだ」とか「自分のあそこがダメだった」とか考えてしまって、全然爽やかになれないわけです。でも、スポーツ選手は負けても「なぜか」かっこいい。あの清々しさは、自分の能力の限界までトライした人たちでなければ到達できない幸福感から滲み出てくるものです。あの勇姿を、私たちの日々の生活に応用するとどうなるか……デカルトが「高邁」というキーワードに込めた狙いを日常生活の中にぐっと引き寄せてみると、そういうことが言えるんじゃないかと思います。