スチュー・ハート カルガリーの“プロレスの父” ――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第6話>
ふたりは2年後にスチューのホームタウンのエドモントンに戻ってきた。
スチューは現役選手として活動をつづけながら、1951年にローカル・プロモーターのラリー・ティルマンとジェリー・ミーカーからエドモントンとカルガリーの興行権を買いとり新会社フットヒルズ・アスレチック・クラブFoothills Athletic Clubを設立した。
プロレス団体の看板はクロンダイク・レスリングKlondike Wrestling、ビッグ・タイム・レスリングBig Time Wrestling、ワイルドキャット・レスリングWildcat Wrestlingと何度か変更をかさね、1967年にカウボーイの町カルガリーらしいスタンピード・レスリングという名称にたどり着いた。
スチューが現役として活躍したのは1946年から1960年までの約15年間。1970年代、1980年代に息子たちとタッグを組んで何度か試合をしたことがあったが、スチュー自身はこれをキャリアの一部としては数えていない。
チャンピオンベルトを腰に巻いたことはないし、同時代を生きたアメリカのスーパースターたちのように世界じゅうをツアーしたこともなかった。
ルーキー時代にいちどだけルー・テーズと試合をしたことがあるというのが実績といえば実績だった。
1950年から1965年までの15年間で、スチューとヘレンさんは男の子8人、女の子4人の12人兄弟をつくった。カルガリーの丘の上にそびえるハート家のお屋敷の伝説が生まれた。
たくさんの子どもたちとたくさんの動物たちがいつも庭を走りまわり、朝から晩までプロレスラーが出入りし、ゆるやかな坂道に中古のキャデラックが何台も駐車してある大きな木造の家。地下道場からは練習中のレスラーたちの叫び声が響いていた。
いつでも何人かのレスラーの卵たち、若手レスラーたちがホームステイしていて、玄関のドアはいつも開けっ放しになっていた。家のなかは1日じゅう食べもののにおいがして、1階のダイニング・ルームではつねにだれかが食事をしていた。
長男スミスから八男オーエンまで全員がプロレスラーになり、4人の娘たちはみんなプロレスラーと結婚した。スチューはコワくてやさしい親方で、ヘレンさんは女将(おかみ)さんだった。
スチューは、レスラーたちにプロレスのおとぎばなしを話して聞かせた。お気に入りのタフガイはジョージ・ゴーディエンコGeorge Gordienko、ルーサー・グッドールLuther Goodall(リングネームはルーサー・リンゼイLuther Linsay=カタカナ表記はルッター・レンジ)、ルーブ・ライトRube Wrightの3人。
スチューは、ゴーディエンコやリンゼイのほうがテーズよりも強かったと考えた。カール・ゴッチもスチューの好きなレスラーだった。
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