更新日:2022年11月29日 11:59
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スチュー・ハート カルガリーの“プロレスの父” ――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第6話>

 スチューは、カルガリーのリングにタフガイを集めた。それはライブの試合を観にくるお客さんのほとんどが本物のカウボーイ、炭鉱労働者、木材製造業といった力自慢のブルーカラー層の男性ファンだったことと関係している。  スタンピード・レスリングはプロレス団体としてはそれほど大きくはなかったが、レスリングのクオリティーはひじょうに高かった。  地下牢=ダンジェンでのケイコに耐え、雪国カルガリーの真冬のサーキットをしのいだレスラーたちの多くは、その後、メインイベンターとしてメジャーなテリトリーへと巣立っていった。  しかし、カルガリーもいつしか時代のうねりに巻き込まれていく。1984年、ビンス・マクマホンがスタンピード・レスリングの買収案をスチューに持ちかけた。  このときスチューがビンスのオファーを断っていたとしても、ニューヨークのツアー・クルーはいずれカルガリーに乗り込んでくる計画だった。  69歳(当時)だったスチューは、ブレット・ハート、ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミス、ジム・ナイドハートの4選手のWWEとの契約を条件に会社をビンスに売却した。  スチューはその後、77歳になるまで自宅の地下牢=ダンジェンで有望な新人レスラーたちを育成した。1985年にはハイスクールを卒業したばかりのクリス・ベンワーが丘の上のお屋敷に住み込みをはじめ、1986年には末っ子の“天才児”オーエンがデビューした。  日本人レスラー、ミスター・ヒト(安達勝治=故人)がカルガリー在住だった関係から、ミスター・サクラダ(桜田一男)、アニマル浜口ら昭和世代からジョージ高野、スーパー・ストロング・マシン(平田淳嗣)、ヒロ斉藤、保永昇男、獣神サンダー・ライガー、馳浩、橋本真也、佐々木健介ら数多くの日本人レスラーが長期滞在した。  カルガリーに在住したもうひとりの日本人オールドタイマー、トーキョー・ジョーのリングネームで活躍した大剛鉄之助(本名・栄田幸弘=故人)は、1974年に大雪のハイウェイで交通事故に遭い、片足を切断する重傷でやむなく引退。  その後はジョー・ダイゴーの名で国際プロレス、新日本プロレスの海外ブッカーを歴任。カルガリーに武者修行にやって来た天山広吉、小島聡、大谷晋二郎ら新日本プロレスの1990年代のヤングライオンを肉体改造したコーチとして知られる。  カルガリーと日本は、プロレスにおける“姉妹都市”のような関係にあった。  現在、新日本プロレスのリングで活躍するデイビーボーイ・スミス・ジュニア、WWEのナタリア(ジム・ナイドハートの長女)はスチューの孫で、レスリング・ファミリーの三代目。スタンピード・レスリングのレガシーはいまもつづいている――。 ●PROFILE:スチュー・ハートStu Hart 1915年5月3日、カナダ・サスカッチェワン州サスカトゥーン出身。本名スチュワート・エドワード・ハート。1946年にニューヨークでデビュー。1950年代から1990年代までカルガリーでプロモーター兼道場主として活動した。六男ブレット、八男オーエンは1990年代を代表するWWEスーパースターだった。2003年10月16日、死去。享年88。 ※文中敬称略 ※この連載は月~金で毎日更新されます 文/斎藤文彦
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