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ザ・グレート・ムタ アメリカのMUTAと日本のムタ――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第77話>

ザ・グレート・ムタ アメリカのMUTAと日本のムタ<第77話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第77話は「ザ・グレート・ムタ アメリカのMUTAと日本のムタ」の巻(Illustration By Toshiki Urushidate)

 ザ・グレート・ムタは武藤敬司の“化身”である。

 アメリカにはケイジ・ムトウという素顔の日本人レスラーは存在しない。武藤のなかでは“武藤”と“ムタ”はまったく異なるふたつの人格、あるいは武藤自身が好んで使う表現を用いれば、別べつの“作品”になっている。

 ムタは“ひょうたんから駒”のような感じで誕生した。武藤が2度めの海外武者修行となるプエルトリコ遠征に出発したのは1988年(昭和63年)1月。

 当時の新日本プロレスは新日本・正規軍、長州軍(前ジャパン・プロレス)、UWFの3グループが同居する大所帯で、キャリア4年の“スター候補”だった武藤は、日本を脱出して海外に活躍の場を求めた。

 プエルトリコからダラスWCCWに転戦してテキサスをツアー中だった武藤をWCWにブッキングしたのは、ザ・グレート・カブキの“生みの親”でもある悪党マネジャーのゲーリー・ハートだった。

 ハートは武藤をカブキの息子として売り出すプランを立てていた。ムタというリングネームは、アメリカ人がローマ字のMutoを誤って“ムータ”と発音したことから定着してしまった。

 カブキの息子という設定だからポジションはもちろんヒール。顔にはペインティング、入場シーンでは“毒霧ミスト”の噴射というルーティンが踏襲された。

 ムタのペインティングは筆で描く漢字が基調になっていた。顔に塗ったときにデザインとしてバランスがいいのは“炎”“忍”“者”の3文字なのだという。

 鏡をのぞきながら字を書くから、顔に描かれた文字そのものは反転バージョンになる。ペインティングの色は赤と黒、赤と白のコンビネーションが基本だが、コスチュームの色によってライトブルー、グリーンなどが加わることもあった。

 ムタはWCWでのデビューからわずか3カ月でメインイベンター・クラスに昇格し、ライバルだったスティングを下してNWA・TV王座を獲得(1989年9月3日=ジョージア州アトランタ)。

 リック・フレアーが保持していたNWA・WCW世界ヘビー級王座にもアトランタ、ボルティモア、グリーンズボロの各都市で連続挑戦。

 1989年12月のスーパーイベント“スターケード”ではメインイベントでフレアー、スティング、レックス・ルーガーを相手に“アイアンマン・コンペティション=シングルマッチ総当たり戦”をおこなった(1989年12月13日=ジョージア州アトランタ)。

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“武藤敬司”と“グレート・ムタ”の同時進行

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