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“ストーンコールド”スティーブ・オースチン タフ・ガイは最後までタフ・ガイ――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第87話>

 デビュー当時は本名(当時)のスティーブ・ウィリアムスをそのままリングネームにしていたが、日本でも有名な“殺人医師”スティーブ・ウィリアムスとの混同を避けるためオースチンに改名した。  “スティーブ・オースチン”は1970年代の人気TVシリーズ『600万ドルの男The Six Million Dollar Man』の主人公の名前を拝借したものだった。  WCWのプロデューサーだったダスティ・ローデスにリクルートされ1991年5月に同団体と契約。WCWには通算4年4カ月在籍し、WCW・TV王座(2回)、USヘビー級王座(2回)、ブライアン・ピルマンBrian PillmanとのコンビでWCW世界タッグ王座を保持した。ルーキー時代からそのレスリング・センスはずば抜けていた。  ひとつめの“if”は、もしあのままストーンコールドがWCWに残っていたらその後のアメリカのレスリング・シーンはどう変わっていたかという“if”だ。  ストーンコールドは日本ツアー中(1995年6月=新日本プロレス)に上腕三頭筋を負傷し、故障者リスト入りした。  エリック・ビショフWCW副社長(当時)はストーンコールドをいともかんたんに解雇し、ストーンコールドはECWを約3カ月間サーキット後、WWEと契約した(1995年12月)。  この時点では“スタニング”スティーブ・オースチンの髪はまだふさふさの金髪だった。  WWEでの最初のニックネームは“リングマスター”。“ミリオンダラー・マン”テッド・デビアスがスカウトしてきたレスリングがとびきりうまいテキサンというキャラクターだったが、これはあまりパッとしなかった。  ヘアスタイルはブロンドのクルーカットからスキンヘッドへと変化し、リングコスチュームは無地の黒タイツ、黒シューズで統一された。  ふたつめの“if”は、もしストーンコールドがストーンコールドでなかったらという“if”である。  頭をツルツルに剃りあげたストーンコールドには“フロスティ(氷のように冷たい)”というキャラクターが用意されていた。シリアル・キラー=連続殺人犯のイメージだった。  “ストーンコールド”を会話のフレーズとして最初に使ったのはストーンコールドのふたりめの妻だったジェニー・クラーク(レディー・ブロッサムの名でWCW時代のストーンコールドのマネジャーをつとめた)で、ジェニーの「早く飲まないとコーヒーがストーンコールド(石のように冷たい)になるわよ」というコメントがストーンコールドの運命を決めた。  3つめの“if”は、やはり首のケガがなかったらどうなっていたかという“if”だろう。ストーンコールドは、オーエン・ハートとの試合中に首を骨折した(1997年8月3日=ニュージャージー州イースト・ラザフォード“サマースラム”)。  専門医はケイ椎損傷=全治1年と診断したが、ストーンコールドはわずか3カ月で戦列復帰(1997年11月9日=カナダ・モントリオール“サバイバー・シリーズ”)。  翌年3月の“レッスルマニア14”(1998年3月29日=マサチューセッツ州ボストン)でショーン・マイケルズを下してWWE世界ヘビー級王座を獲得したときには首のコンディションはすでに“取り扱い注意”の状態だったが、“時の人”となったストーンコールドはそれから2年間、故障をだましながらリングに上がりつづけた。
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アメリカのプロレスが迎えた3度目の大ブーム
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