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“ストーンコールド”スティーブ・オースチン タフ・ガイは最後までタフ・ガイ――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第87話>

 アメリカのプロレスは“白黒テレビ”の1950年代前半、“ハルカマニア時代”の1980年代前半につづいて3度めの大ブームを迎えていた。  ストーンコールドは、1999年11月から1年間の長期オフをとってついに首の手術を受けた。ドクターは手術―引退―長期のリハビリをワンセットの治療プランと考えたが、ストーンコールドは「手術はするし、プロレスもまたやる」と宣言し、じっさいそのとおりになった。  奇跡のカムバックから半年後に開催された“レッスルマニア17”のメインイベントでストーンコールドは宿命のライバル、ザ・ロック(ドゥエイン・ジョンソン)と対戦。  アストロドームに6万7965人の大観衆を動員し、興行収益425万ドル、PPV有料契約世帯数95万件のダブル新記録をつくった(2001年4月1日=テキサス州ヒューストン)。  ストーンコールドはストーンコールドのクライマックスをみずからプロデュースしたのだった。  ストーンコールドとビンス・マクマホンの関係は、あるときは“犬猿の仲”で、またあるときはおたがいにとって“よき理解者”という――連続ドラマのストーリーとまったく同じ――スタンスだった。  プロレスができない体になってしまってもテレビの画面に登場しつづけなければならないストーンコールドは、フィジカル面だけでなくメンタル面でも“取り扱い注意”の人気商品になった。  バックステージでビンスと口論になり、まるでドラマのワンシーンのようにアリーナから出ていってそのまま何カ月間もスケジュールをボイコットしたこともあった。ボスとは何度も修復不可能なケンカをしたけれど、そのたびに仲なおりした。  ストーンコールドは3回結婚し、3回離婚した。ストーンコールドというニックネームを発案した妻ジェニーはダラスUSWAとWCW時代のマネジャーで、3人めの妻デブラマーシャルはWWEの連続ドラマで共演した仲だった。  デブラのあとの恋人、元モデルのテス・ブロウザードとは名誉毀損、DV(ドメスティック・バイオレンス)、家宅侵入などで告訴合戦をくり返した。ストーンコールドは24/7(トゥウェンティー・セブン=1日24時間、週に7日間)シフトでストーンコールドでありつづけた。  ストーンコールドは、だれにも告げずにそおっと“引退試合”をすませていた(2003年3月30日=ワシントン州シアトル“レッスルマニア19”)。  最後の試合の相手はやっぱり、ロックだった。ロックはロックで、プロレスを卒業しつつあった。  その日、セーフコ・フィールドのリングでメインイベントのリングに立っていたのはふたりよりもずっとキャリアの浅いカート・アングルとブロック・レスナーだった。  やっぱり、ストーンコールドとビンスの関係はずっと変わらないのだろう。ストーンコールドは“ストーンコールド”の知的所有権と版権・著作権を「オレのものだ」と主張し、ビンスはこれを拒否した。  このケンカは裁判になりそうだったが、けっきょくふたりはまた和解し、ストーンコールドはWWE映画社と別ワクの新契約を結んだ(2005年1月)。ストーンコールドは“第2のリング”にスクリーンを選択したのだった。 ●PROFILE:“ストーンコールド”スティーブ・オースチン“Stone Cold”Steve Austin 1964年12月18日、テキサス州ビクトリア出身。本名スティーブ・ウィリアムス(現在はスティーブ・オースチンに改名)。1989年12月、テキサスWCCWでデビュー。1996年1月、WWEと契約。WWE世界ヘビー級王座通算6回保持。2003年3月の“レッスルマニア19”を最後に引退。2004年4月、WWEを退団。2005年1月、WWE映画社と新契約。2009年、WWEホール・オブ・フェームで殿堂入り。 ※文中敬称略 ※この連載は月~金で毎日更新されます 文/斎藤文彦
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