3・11の教訓を後世に伝える必要性
―[先祖伝来の[大津波伝承]に学べ]―
東日本大震災で多くの人の命を救ったとされる先祖代々語り継がれてきた大津波伝承。そこで、小誌取材班が全国各地に今なお残る大津波にまつわる言い伝えを徹底調査。実際に現地を訪れ、風化しつつある先人たちの津波警告をリポートする!
【西日本の大津波伝承】
西日本で津波伝承が多く残されているのは紀伊半島と、四国の太平洋沿岸部だ。ここもまた、過去に何度も大津波に見舞われたという悲惨な歴史を持つ。
まず石碑などが集中するのは、1854年の安政南海地震や1707年の宝永地震など、文献にあるだけでM7以上の地震発生と津波を7度も経験してきた徳島県。当時の被害状況を記した「春日神社の敬渝碑」(マップ4)や警告文が書かれた「蛭子神社の百度石」(マップ5)だけでなく、昭和南海地震後の具体的教訓を込めた「津波十訓の碑」などもある。
また、あまり知られていないが、沖縄県石垣島には明和大津波(1771年)の慰霊碑がある。文献によれば、このとき石垣島を最大85.4mの津波が襲い、人口の3分の1が波にさらわれたという。
また、三陸地方同様の入り組んだリアス式海岸が見られる紀伊半島西岸の和歌山県には避難ルートなど現代のハザードマップに相当する内容が示された石碑「大津なみ心え之記碑」(マップ2)も存在する。そして、東南海地震で静岡県と同様の甚大な津波被害が想定されているのが紀伊半島東部だ。そこに位置する三重県鳥羽市にも、多くの津波到達地点を示す石碑があったのである。
その鳥羽市内にある国崎町は、日本でもっとも古く津波災害を避けるために高所移転をした集落。1498年の明応大地震の津波で甚大な被害を受け、すべての家屋を高所に移した。このため、「宝永地震では家屋や人的被害を受けずに済んだ」と、市史にある。
だが、現地を訪れてみると、高所移転したという、生かされた教訓の歴史もほぼ忘れ去られていた。
「過去の津波のたびに高所移転が取り上げられて、実施もされてきました。しかし昭和の三陸津波後の岩手県の例を見ても、集団移住したのは42集落のうち7集落のみ。先の岩手県宮古市姉由地区は40世帯という小規模集落で、統率が取りやすかったから住民全員が石碑の伝承を守れたのだと思います。しかし、世帯数が多く漁業が盛んな地域では、時がたつにつれてまとまりを失い、利便性を求めて低地に戻る住民が増えていく。理由は生活・交通の不便、飲料水の不足などさまざま。浜から15m以上の高地、距離にして400m以上浜から離れると原地復帰してしまうと言われています。逆に、何十年、何百年と伝承が守られている地域のほうがむしろ珍しいでしょうね」(首藤氏)
それにしても、石碑などを建て後世に伝えようとしても、伝承は風化していってしまうものなのか。前出・広瀬氏は、「災害文化は一般化しない」と言う。
「災害伝承を正しい形で根付かせるためには、常に人々に危険を感じさせないといけない。そうなると、100年に一度などのスパンではなく、たびたび災害が来る必要があるがそんな状況は好ましくない。一方、私たちは『正常性バイアス』が働く現代に生きています。安全が当たり前の現代では、あえて危険を感知する能力を下げることで、正常性を保っている面がある。このため、災害伝承の教訓も頭に残りにくくなっている」
だからこそ「過去の災害を後世に伝える積極的な防災教育が必要だ」と、首藤氏は強調する。
「岩手県宮古市に角力浜という地域があります。基幹産業は漁業で、その漁業の妨げにならないよう防潮堤を造っていない地域。しかも、住民の約半分が65歳以上の高齢者。津波に対してノーガードです。そんな地域だからこそ、防災教育と訓練を徹底して行ってきた。誰にでもわかりやすい避難ルートを作り、高齢者をリヤカーで搬送するなどの実践的な防災訓練の結果、同地区では津波で家屋が全半壊したが、人的被害はほぼ皆無でした」
今回の未曽有の大震災。1000年に一度の災害とはいえ、この教訓を私たちは「平成の津波伝承」として後世に伝えなければならない。
⇒ 大津波伝承ハザードマップ【西日本編】
【首藤伸夫氏】
東北大学工学部名誉教授。東大卒業後、旧建設省を経て津波研究に従事。日本の津波工学の第一人者として、津波に関する多くの学術書を執筆している
― 先祖伝来の[大津波伝承]に学べ【3】 ―
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