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自衛官から地雷処理の活動家に転身。愛媛県とカンボジアとの懸け橋に

 コロナ禍で忘れてしまいそうになるが、世界中ではいまだに紛争中の地域や紛争の傷跡が色濃く残る地域が多い。そんななかで自衛隊から地雷除去専門家に転身した高山良二さんのお話を、愛媛県を中心にテレビ・ラジオ番組のパーソナリティーとして活躍中のやのひろみさんの取材レポートでお届けする(以下、やのひろみさんの寄稿)。
地雷処理活動グラフィックス

みんな笑顔!子どもたちには「ター(おじいさん)」と呼ばれている高山良二さん。

愛媛県にこんな活動をしているおじさんがいる

 私が地雷処理専門家・高山良二さんを知ったのは、自衛官退官直後からカンボジアで地雷処理活動を始めた男性の地元新聞記事でした。「会ってみたい!」そう言い回っていると、私が喋っているラジオ番組にゲスト出演者としてお越しいただくことになりました。何でも言ってみるもんです。  ラジオ生放送で高山さんに、「戦争はなくなりますか?」とたずねたら、「……なくならないと思います」とハッキリおっしゃいました。「でもせめて片付けないと。人間が犯した過ちによって、大地に落とされた地雷や不発弾、人間がばらまいたものは人間が片付けないといけない」と続けられました。  その言葉からは強靭な意志を感じました。あの出会いから18年、帰国の度に高山さんへの取材を継続し、私の子どもたちとも仲良くなってくれて、今や高山さんの奥様共々、家族ぐるみのお付き合いとなりました。  高山さんが現役自衛官だった1992年、日本は初めてカンボジアでのPKO(国連平和維持活動)に参加。高山さんは、地雷処理専門の部隊の隊長補佐として、約80名と共に現地に入りました。半年後無事1人の欠員もなく任務を終え帰国の途に。安堵の一方で、「まだやれることがあったのではないか」という強い思いにかられ、その時に「もう一度、ここに戻ってこよう」と決意。  それから約10年、その想いは募るばかり。期せずして退官直前に、自衛官OBが地雷不発弾処理のNGOを立ち上げたとの情報を聞き、高山さんは即加入。2002年、55歳で定年退官した高山さんは、退官からわずか3日で機上の人となり、カンボジアに「戻った」のです。

不発弾処理を通して、地元の人たちに仕事を作る

 カンボジアで、400万とも600万とも言われる地雷や不発弾。不発弾処理と不発弾による事故防止の啓蒙活動に尽力しながら、彼らの貧困と労働、ライフラインの整備など様々な問題が見えてきた高山さん。まずは「住民参加型の地雷処理活動」を始めます。「自分たちの手で復興すれば、二度と内戦は起こらないはず」ということと、「働く場所」を用意することが目的でした。  貧困ゆえに隣国に身売りし、自分の体を犠牲にしている女性も少なくない現状を打破するために、選考基準は「家族に被災者がいる」「貧困層」「出来るだけ女性を多く」としましたが、命と隣り合わせの仕事にも関わらず、79名の定員に約200名もの応募がありました。
地雷処理活動グラフィックス1

地雷発見場所にドクロマークの目印

 雇用した住民に地雷処理技術を教え、地雷探知員として自らの手で村の地雷を除去し、爆破による住民の被災を無くし安全な土地を手に入れるための活動の日々。一度だけ、決して忘れてはならない作業中の事故がありました。ちょうど高山さんが帰国のため現場を離れていたタイミングで、対戦車地雷の爆発により7名が殉職してしまったのです。活動の継続は困難かと思われましたが、残されたメンバーで「もうやめたい」と言った人は一人もいなかったそうです。こうして、平和構築や地域復興のために活動を再開しました。  次に処理活動を継続しながら取り組んだのは「生活環境の整備」です。村に住んで活動していると、水が足りない、学校が足りない、通う道がない……と山積している問題が見えてきます。たとえ、地雷や不発弾がなくなっても、そこで人間らしい営みが出来ないと、貧困から抜け出せず、心豊かに生きていくことができません。「より現地に即した活動を」と、2011年に高山さんの地元愛媛県の支援者と共に「認定NPO法人 国際地雷処理地域復興支援の会」を設立(やのは理事の端くれとして在籍させてもらっています)。
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高山さんを通して日本とカンボジアの交流が
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