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ユーミン罵倒発言の的はずれ。安倍夫妻とは昔から仲良しなのだが…

人格的にヤバい天才はいくらでもいる

 この種の議論は、欧米でもたびたび起きています。記憶に新しいところでは、女性に対する性的暴行疑惑が取り沙汰された、R・ケリー(53)や、共演した女性ミュージシャンから、セクハラやパワハラ被害を訴えられたライアン・アダムス(45)などがいました。
ウインターランド・シャッフル 1967

チャック・ベリー「ウインターランド・シャッフル 1967」

 なかでも、2017年に亡くなった、ロックンロールの始祖、チャック・ベリー(代表曲に「ロール・オーバー・ベートーヴェン」や「ジョニー・B.グッド」など)は、その象徴的な例と言えるでしょう。  アメリカの音楽サイト「noisey」も、『Why Do We Assume Good Musicians Are Good People?』(なぜ私達は偉大なミュージシャンは善良だと決めてかかるのか? 2017年3月25日配信)と題して、作品と人格の問題を論じていました。コラムの著者、ドリュー・ミラードは、メーカーや生産者に高度な倫理観と透明性を求める“意識高い系の消費者”の声が、音楽業界にも影響を及ぼしていると考えています。  どういうことかというと、たとえば洋服ならば労働者に公平な賃金を支払い、エコフレンドリーな原料を使用しているブランドが好まれるわけです。これを音楽に置き換えると、<もしもミュージシャンが誠実な人柄であると思えたら、私達は好んで彼らの楽曲を聞こうとする傾向にある。逆に言うと、もしも誰かの曲を気に入った場合、その音楽の美点と作者がイコールだと、自動的に決めてかかる部分が私達の中にはある。>(以下すべて筆者訳)  つまり、現代社会においては、ミュージシャンが“よき人物”であることが生産者責任であるとする前提になっているのではないか、というのですね。  ところが、物事はそう簡単ではありません。道徳的な正義と公正が果たされていれば、必ずや作品の完成度が高まる、というわけにはいかない。音楽というあいまいな芸術様式においては、なおさらのことです。  そこで、チャック・ベリーという複雑怪奇な存在について、考えるのです。彼がいなければビートルズやローリング・ストーンズもいなかったほどの決定的な存在でありながら、一方で、自身が経営するホテルの女子トイレに隠しカメラを設置して覗き見をしたり、14歳の少女に売春を強要するなどして、何度も逮捕されてきました。

勝手なイメージでがっかりされても…

 こうしたケースを前にして、私達はどのような態度で接するべきなのでしょうか?  コラムの著者、ドリュー・ミラードは、こう論を締めくくっています。 <作品の良い部分と人格的な欠陥を比較して、自分達の都合のいいようにアーティストの価値を決めるのではなく、チャック・ベリーが世に生み出してきた楽曲は、たとえその出どころが同じ人物だったとしても、決して彼という人格を反映したものではないと認めることはできるのだ。>(筆者訳)  つまり、「偉大な詩人には偉大な知性を期待してしまう」という考えこそが、作品への正当な理解の妨げになるのではないか、と言っているわけですね。  そう考えれば、結局は“偉大な詩人”と“始末に負えないクズ”の部分を、同時に受け入れるしかないのです。輝かしい功績を理由に無罪放免というわけにもいかないし、罪を犯したがゆえに作品の価値が失われるわけでもない。どちらも、その人そのものなのです。
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矛盾する要素を受け入れることを、知性と呼ぶ
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音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4

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