更新日:2021年03月09日 19:23
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ダメ、だめ、駄目…「表記の統一」にこだわるのは日本語の自殺と感じます

不統一だからこそ、伝わるニュアンスも

 もちろん、これはとても珍しいケースで、僕も健全に機能することの方が多いです。そういう時は、校閲・校正の人に感謝します。なので、こういうツイートをしました。 「予想外にバズったので詳しく書くと、僕は校正と校閲は不可欠だと思ってます。『表記の統一はしない』と言えばいいだけというアドバイスもありましたが、そう言うとどのレベルで統一しないのか詳しく問われます。『僕』『ぼく』は分かりやすいですが『出会う』『出合う』『何』『なに』なども聞かれます」 「なので、統一しない一覧表を事前に作るのは手間だし難しいのです。僕は天才でも完璧でもないので、校正校閲はありがたいです。でも何十回、時には百回以上『ダメ』や『駄目』を全部『だめ』に直されると僕は鋼のメンタルではないので『すみません! 僕が悪かったです!』と悲しくなり、負けるのです」 「ということが、この40年の間にどんどん機械化、厳密化されてると感じます。読者が表記の不統一を見つけて『この作品はろくに校正されてない』と悲しいツイートを見ることも増えました。漢字、ひらがな、カタカナがあるから豊かなニュアンスが出せる日本語で統一にこだわるのは日本語の自殺と感じます」  ……でね、そもそもは、校正は「どうして『表記の統一』から始まるのか?」ということなのです。  確かに、マニュアルとか科学的文書だと「安全弁」と「安全べん」なんて表記が混じっていると混乱します。統一するべきでしょう。それはよく分かります。  でも、エッセーとか小説、戯曲のような心情を現すものにも、どうして無条件で適用されるのか、が分からないのです。  このツイートをしている間に、別の出版社からの原稿が返ってきました。  普通、原稿の横に校正者と編集者がいろいろと書き込んでくれるのですが、今回は、全部、編集者が直した原稿でした。  最初、理解できなかったのですが、「他の作家さんはみんなそうしている」と言われました。編集者が漢字を開いたり、漢字にしたり、表記を統一したり、文言をなおした結果だけの原稿を渡されました。  慌てて、自分が書いた元の原稿ももらって、編集者と校正者がどう変えたのかをチェックしました。  編集者がいてもこんなことがあるんだなと驚きました。けっこう大手の出版社でした。いろんなことが起こるものです。はい。
ドン・キホーテ 笑う! (ドン・キホーテのピアス19)

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