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ウクライナ軍事侵攻。敗戦国として改めて反戦を唱えるときだ

ウクライナの首都・キエフで、ロシア軍による大規模軍事作戦で損傷した住宅。2月24日、ウクライナのNATO加盟阻止を目指し、圧力を強めていたロシアがウクライナへの軍事侵攻を開始。ウクライナ保健相によると24日時点で少なくとも57人が死亡、169人が負傷。今後ますます戦闘は激化する恐れがある ※情報は2月25日の原稿執筆時点のものです。
鈴木涼美

写真はイメージです

NO TIME TO KILL

今年の米オスカーで4部門にノミネートされたことでも話題の村上春樹原作・濱口竜介監督映画『ドライブ・マイ・カー』の中で、舞台の演出を務める主人公がチェーホフを「恐ろしい」と表現する場面がある。 「彼のテキストを口にすると、自分自身が引きずり出される。そのことにもう耐えられなくなってしまった」。 日本で言えば森鷗外らと同世代のチェーホフは、19世紀末のロシアで活躍した作家だが、生まれは現在のウクライナに隣接するロストフ州の国境近くの港町タガンロークである。 アゾフ海に面したその町は、古くは大北方戦争の時代にロシア艦隊の基地がつくられたものの、オスマン帝国との争いの中でピョートル大帝が破壊・放棄し、約50年後に再びロシア軍の手に渡るまで長らく廃墟であった。 巨大な国の端っこに位置するだけに歴史は荒々しい。チェーホフが生まれる5年前にはクリミア戦争で上陸した英仏軍に市街地まで攻撃され、第二次世界大戦では、2年間に及ぶナチスドイツ軍の占領によって再び町が破壊されている。 モスクワ大医学部を出たチェーホフは以後、モスクワを主な拠点として活動するが、持病の結核療養を機にヤルタに移住、ドイツの鉱泉地で他界するまでそこに居を構えた。このヤルタは、2014年以降ロシアが実効支配しているクリミア半島の都市である。 国際社会の多数派はロシアによるクリミア併合を認めておらず、帰属については係争状態にあると説明される。『かもめ』や『ワーニャ伯父さん』など、演劇史上極めて重要な作品を残した大作家の足取りを辿ると、緊迫するウクライナ情勢の最前線に隣り合う。 ロシアがウクライナへの軍事侵攻を始めた。NATOの東方拡大への懸念と不満を背景に、再び力で国境を変更しようとするプーチン大統領の試みは、米欧の警告を無視した実力行使に発展。2月24日に空爆で各地の軍事インフラ施設を破壊したほか、首都キエフの空港ではウクライナ軍と戦闘した。 G7は共同声明で厳しく非難したほか、引き続き経済金融制裁で協調することも確認しているが、クリミア併合後のロシアは米欧の制裁を見越して周到な対策を強化している。資源豊富で広大な国土を有する同国が、制裁と孤立によってどれほどの打撃を受けるかは未知数だ。 米中二強が鮮明となる中で、米国が主導してきた冷戦後の国際秩序が立て直しを迫られている。ただし、武力で変更しようとするロシアの姿勢は非難し続けなければならない。人を殺すウイルス対策にかすかな出口が見えだしたとき、今度は人が人を殺す争いが現実に始められた。この事態をどう受け止めるのか。 私は軍事侵攻が始まった24日、ギャルAV女優と清純派AV女優を競わせて勝敗を決める番組の収録をしていて、休憩中に誰かが「戦争始まった」と言ったけれど、それだけだった。戦争を語る言葉が貧弱になっていく中で、敗戦を最も重要な立脚点とする国として改めて反戦の意志を唱えることは思いのほか重要に思える。戯曲のテキストが役者の内面を引きずり出すように、言葉によって向き合える歴史というものがある。 チェーホフはこう書いた。「いままでの人生が、いわば下書きにすぎず、もうひとつの人生がまっさらにはじめられたらとね。そうなれば、誰もがまず自分の犯した愚を繰り返すまいとするでしょう」(三人姉妹)。 人も国も、歴史をまっさらにはできないが、だからこそ犯した愚を語ることができる。 ※週刊SPA!3月1日発売号より
’83年、東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。専攻は社会学。キャバクラ勤務、AV出演、日本経済新聞社記者などを経て文筆業へ。恋愛やセックスにまつわるエッセイから時事批評まで幅広く執筆。著書に『「AV女優」の社会学』(青土社)、『おじさんメモリアル』(扶桑社)など。最新刊『可愛くってずるくっていじわるな妹になりたい』(発行・東京ニュース通信社、発売・講談社)が発売中

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