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『シン・ウルトラマン』斎藤工が愛するSF映画『サンダ対ガイラ』や『ブロブ』の魅力

エンターテイメントにとって重要なもの

斎藤工_DMA-_TKM3835――『ヒドゥン』(’87)や『トレマーズ』(’90)みたいな洋画SFもお好きだとか。 斎藤 めちゃくちゃ好きです! そのラインでいくと『ブロブ(/宇宙からの不明物体)』(’88)も大好き。あのあたりのSF映画は、日本のみならず、非常に特撮的でしたよね。いかにこれを描くかっていう現場の創意工夫によって、映画になにかが宿っている気がします。 今みたいに何でもVFXで処理することができなかったぶん、受け手側も自分の中で補いながら観ていくというか、これから観るものはこういうものなんだとチャンネルを合わせていく過程があった。結果、自分と作品の距離も近くなってたと思うんですよ。 去年、『DUNE/デューン(砂の惑星)』(’21)を観たとき――もちろん、ドゥニ・ヴィルヌーヴは本当に素晴らしい映像作家なんですけど――ちょっとすごすぎて、表現されすぎちゃってて、かえって作品に近づけないなと。 そういう意味では、決して成功とは呼べないバージョンの『デューン(/砂の惑星)』(’84)のほうが、あるいは『ホドロフスキーのDUNE』(’13)で描かれていたプロセスのほうが、『デューン(砂の惑星)』(’65)という作品に近づけていた気がするんですよ。 いつしか僕らは、“すごい”と“面白い”をイコールで結びつけてしまってたのかもしれない。それは『DUNE』に限らず、『エターナルズ』(’21)なんかを観てても同じことを感じたんですね。たとえば、演劇とかでもそうじゃないですか。「あぁ、この人がクラスのマドンナ役なのね。OK、分かった」と世界観を受け入れる瞬間があって、でもその世界ってのは、意外とすんなり受け入れられるものなんですよ。エンターテイメントにとって、意外とここが重要だったんじゃないかという気がしますね。

作り手と受け手の共犯関係

――確かに、より能動的な視聴体験になるかもしれません。 斎藤 そう、一種の共犯関係が生まれるんですよね。そういえば、自分のライフワークでやってる移動映画館で、近年は(チャールズ・)チャップリンのサイレント映画を上映してるんですけど、小さいお子さんは自分でアテレコしながら観たりするんです。 「こういう感情なんじゃないか」と、純粋に自分たちのクリエイティビティをかけ合わせながら観ている。特撮を観てるときの感覚と少し近いものを感じましたね。もしかすると昔ながらの特撮っていうのは、すべてがVFXで描かれて提示される現在のもの以上に、作品の根幹に近づける建て付けなのかもしれません。
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