更新日:2024年08月09日 04:25
ライフ

44歳で「ヘビの刺青」を入れた女性の壮絶な半生。両親の死を経て「今がもっとも楽しい」

稼ぎの半分を実家に入れていた

緒月月緒(おづきつきお)さん

母に依存していたのかもしれないと、当時を振り返る

 結局、その男性と母親は別れたものの、幼い緒月さんの心に傷を残した。緒月さんは18歳になると同時に、ピンクサロンで働くことになる。 「もともと17歳のとき、そのお店のティッシュ配りをしていました。その縁で、店長から『18歳になったら働けば?』と声をかけていただいて、誕生日の翌日にデビューしました。当時、お金の価値がわからない小娘だったこともあって、稼いだ金の半分を自宅に入れていました。金額で言うと、月に40万円から50万円を入れていたと思います。きょうだいも学費や生活費がかかると聞いていたので、なんとか自分が力にならないといけないと思っていました。何より、働きだしてからは、お金を入れないとご飯を出してもらえないんですよね」  緒月さんが初めて独立したのは24歳のころ。18歳からサラリーマンの比ではない稼ぎがありながら、自宅に留まったのはなぜか。 「今から振り返ると、私も母に依存していたのでしょうね。母の愛情が欲しくて、それで役に立ちたかった部分があるのだと思います。母は粗暴さという意味では父よりもマイルドですが、不機嫌な雰囲気を悟らせて言うことを聞かせるようなところのある人です。人としての魅力があるのは疑いようがなく、父との結婚前に離婚歴があり、私たちとは別に3人の子どもがいたものの、親権を元旦那に渡して身軽になってしまえる思い切りの良さもあります。一方で、非常に面倒見がよく、愛情に偏りのある人でもありました。その気まぐれな愛情が、私は欲しかったんだと思います」

父の様子がおかしいことに気づくが…

 離婚を経てもなお交流のあった育ての父親。だが彼の死は唐突に訪れた。緒月さんが20代半ばのころだ。 「父は長距離ドライバーをしていて、当時はかなり高給取りだったようです。しかし心根が優しいのにコミュニケーションに難があり、人間関係がうまいとは言えない人です。幾度かの転職をする頃には、稼ぎもそこまでなかったのかもしれません。父とは毎月会っていましたが、徐々に変わっていくのがわかりました」  緒月さんが今でも思い出すのは、こんな一幕だ。 「まだ20歳そこそこのとき、父に『専門学校に行きたいから学費を出してほしい』とせがんだのですが、断られました。父は昔気質の人で、『女は学を修めなくていい。男に養ってもらってなんぼ』という考え方の人だから、その反応は予想の範囲内でした。数年が経ち、当時のことなど忘れて父と二人で食事をしていたときに、ぽつりと『あのときは、学校に行かせてあげられなくてごめんな』と言ったんです。とても人に謝るような性格ではないし、私には父がひどく弱っているように見えました。もっといえば、うつ病ではないかと思いました」  そのことはすぐに母親に伝えたものの、真剣に検討されることはなかったという。 「私の話を聞いた母は、『あんな暴君みたいな人が、うつ病になるわけがない』と取り付く島もありませんでした。その年の年末、私たち家族は父と過ごし、恒例のカウントダウンをするはずでしたが、何やら父は用事があるような素振りで帰ってしまいました。結局、それが私を見た父の最後の姿でした」
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「ヘビの刺青」を身体に入れた理由
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ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki

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