砂漠では砂が石けんがわりに!――小橋賢児「世界が変わってもインドはずっと変わらない」
2015年の夏、日本中でもっとも熱かったダンスミュージックフェスティバル「ULTRA JAPAN」は、一人の男の熱狂から始まった。周囲の反対を押し切って開催したイベントは成功し、巷間に伝導したころ、その男はバックパック一つでひっそりと旅立つ。
【僕が旅に出る理由 第7回】
『ONE PIECE』の街・ジョードブルを後にしてさらに西のジャイサルメールという街へ向かった。
空気は乾燥し照りつける太陽と車窓から時おり見える景色には薄茶色した砂漠がちらほら広がりはじめていた。街角の拡声器から流れるアラビア語のような教典を読み上げる声と音楽に街を歩くイスラム教徒の白い帽子をかぶった人々の光景はインドというよりどちらかというとニュースで見るような中東などに近い感じだった。
それもそのはず、この街はパキスタン国境までわずか100km足らず。治安こそ問題ないというが、目と鼻の先ではテロが勃発して情勢が不安定な地域とあって到着する前は気持ちの中でどこか少しだけ構えてしまっていた。
しかし、実際には街自体は非常に穏やかな空気が流れ人々もいわゆる観光地って感じのガツガツした感じはあまりない。中心となる街自体もとても小さいのでリキシャの客トリ合戦みたいなものもほぼないので、久しぶりに割とのんびり過ごせる感じもした。
街から少し離れたところではラクダに乗りながら砂漠でキャンプが出来ると聞き、それも悪くないなぁっと、初日はそのプランをとることにした。
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待ち合わせの場所から予想もしてないぎゅうぎゅう詰めの乗り合いの車に乗せられ(徐々にインドはいつもこうだとわかってくるが…)到着した砂漠の入り口で今夜の宿泊者がもう一名いることがわかった。
なんと奇遇にもまたもや日本人であった。
普段海外なんか行く時はあまり日本人とそう絡みたいとは思わないなので極力は避けてるほうなんだが、彼の純粋な透き通った目とピュアなオーラはなんか普段旅で合ういわゆる観光客とはどこか違っていた。彼はNGOのボランティアのために半年間ブッダガヤでの支援活動を終え、日本帰国前にインドを廻っているという二十歳直前の青年であった。
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到着した砂漠では沢山のラクダとラクダ使いの男達がいて日帰り用、砂漠宿泊用とそれぞれあるようだった。
やがて今夜の僕らのアテンド役だという一人の老人と2頭のラクダがやってきたのだが、砂漠でキャンプするというのでもちろんキャンピング道具や料理器具などはもってきているのかと思いきや完全に手ぶらでどこにも見当たらない。寝具なども全てものは用意してあると聞いていたのに、これはまたインドにやられたか!と一瞬思ったがとにかく乗れというので、まぁ現地に施設でもあるのかなぁっと思い、特別質問することなくラクダに乗って砂漠を歩き出した。
こう見えても割と人見知りの性格なのであまり自ら他人と絡んだりはしないのだが、目の前に広がる美しい景色にその青年とも距離が縮まり、気づくとお互いの写真を撮り合いっこしていた。
ラクダからの景色は思っていた以上に高く360°のビューで広大な砂漠を隅々まで見渡せるようでそれだけでも来てよかったなぁって気分になったが、夕焼けの時間はまた格別であった。
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やがて日が砂漠の地平線に消えると気温がぐんと下がっていった。そういえば今夜の宿泊場所やキャンプ道具はどこにあるだろうと改めて気になって、そのアテンド役の老人に聞いてみた。
僕:今夜僕らが寝るとことか、ご飯はどこでしょうか?
老人:おーそれならここにあるから好きなだけもっていって好きな場所にひきなさい。
と指さした先にはキャンプファイヤーか何かで使う薪の束みたいなものでつくられた物置みたいなのがポツンとあり、その中にどう見てもずっと置きっぱなしだろうという汚れた布団や毛布類が無造作におかれてあった。
ご飯は今からわしがつくるからちょっと待っててくれと、物置からフライパンや食器類のようなものを取り出し、その辺りに落ちている薪などを集めて器用にマッチ一本で火をつけはじめた。
老人が火を起こしている間、青年と少し苦笑いしながらもその汚れた布団と毛布を砂漠にひき今夜の寝床を確保した。
そういえば友人から「#インドあるある」という#タグを勧められたほどインドという国は思った通りにはいかない国だが、逆に起きた出来事をどう捉えるかでまるで世界が違ってみえるほどインドというのは不思議な魅力があるともいわれてる。
考えてみればこの広大な砂漠と星空を僕らだけで貸切で堪能できるなんて相当贅沢な事だしこの与えられた環境を存分楽しもうと思った。
特別な道具も調理場もある訳でもない大自然の下、慣れた手つきで火をおこし、一つの鍋でご飯を炊きカレーをつくり、チャイやチャパティまでつくる。
その与えられたシンプルな環境の中でなんでもこなしてしまうその老人にちょっと関心しはじめた矢先に……まさか!と思ったが、砂漠の砂を手にとり石けんがわりに食器を摩擦して汚れを拭き取りはじめた…
確かに十分な水もない砂漠のど真ん中で洗い物が困難なのはわかるがさすがにこれはっと思ったがどうしようもない。海外経験がいくら多くても汚いのを自ら好む訳でもないし、可能ならば綺麗な方がいいに決まっている。しかし、インドではこういう状況に遭遇することは本当に多くてただ慣れていくしかない、というか不思議と慣れていくのだ。
思えば路上で売られているチャイもローカル食堂の皿もだいたい誰かが使い終わったものを、さらっと洗うか、時にはそのままを使いまわしされる時もある。最初こそは躊躇していたが、人類みな兄弟という観点で考えれば、友達は綺麗で他人が不衛生なんて差はないわけで、ある意味で気にせず誰かの使ったコップでチャイを飲むインド人の方が大きな器をもっていきている気もしないでもない!とこの時も自分を言い聞かせた…
考えてみれば、使い回しの布団や毛布といい、皿やコップといいもしこれが砂漠じゃなかったら完全に路上生活者の生活にお邪魔してるのと変わらないよなー?なんて思いながらも、そんな環境が何故だか可愛らしく見えてきて…ちょっと笑けてきて、ふと青年もみると同じように笑っていた。
でも思えば環境なんて若いうちにどう慣れるかで、大人になればなるほど自分の決まり事や苦手なものなどがハッキリしてしまい環境に適応しにくくなる。だからこそ若いうちに自国の常識ではない国にいって打ちのめされながらも感性を広げた方がずっとその先の視野や可能性が広くなる。たまに、えーホテルじゃないの無理—とか、風呂ないの無理—とかいう人もいるけど、それが理由で新しい世界に出会わないのは本当にもったないと思う。だいたい現代人が途上国にいってお腹を壊しやすいのも綺麗なものが当たり前に慣れすぎていて、違う環境での適応力が弱い部分もある。
僕は幸いにもサーフィンをやるので汚れた海水を飲み慣れているせいか、このインドをはじめ世界中の様々なローカルフードを食べてもあたったことがないのだが。
とにかくこの青年なんて全く臆することもなく汚れた食器や布団をつかいある意味その場の適応能力というか生きる力は自分なんかよりよっぽど強いのではないかと思うほどだった。
インドとパキスタンの国境にある広大の砂漠と満点の星空の下、少し砂まじりのカレーを食べながら半分くらい年下の青年とラクダ二頭とラクダ使いの老人の賛美歌を聞いている。考えてみればあまりにも非日常な世界だけど、このアンバランスな現実がなんだかとても微笑ましくも思えてきた。
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思えば人生の辛い時なんてそれをどう捉えるかでその先の現実が変わっていくという事は痛いほど学んだ気がする。
27歳の時に8歳から続けてきた俳優を休業し、頭を丸め日本を飛び出しアメリカに渡り、感情のリハビリのように世界を旅をし、日本に戻った時は何でもできるのではないかと意気込んで社会に飛び出すも、現実はそう簡単にはいかず新しい仕事のチャレンジはことごとく失敗に終わっていった。
お金もそこをつき、人間関係でのもめ事もおき、心身ともに限界のところまでいった。
30歳を目前にして人生はお先真っ暗の深いトンネルの中に潜り込んだようだった。
ついには当時つき合っていた恋人にも愛想をつかされ、一緒に住んでいた家も離れ実家に戻りトイレとご飯だけはかろうじていけるくらいで、親との会話もほぼなし。部屋に籠もりっぱなしで気づいたら3ヶ月くらい深い深い闇の中にいた。
しかし、その中でそれまでは気づく事が決してなかった自分の心の奥の奥の意識というのを徐々に感じ取るようになっていった。
その意識に、ある日もある日も、それがどんなに辛くてもその意識の先がどこへ向かうのか感じ取るようにしていた。そうすることで自分の意識を少し客観的にみれるようになっていっていた。
ふと気づくと3ヶ月くらいすぎていて、ある日直感でとにかく病院にいってみようという気になった。
病院で血液検査をし、後日結果をきくと重度の肝機能障害という事がわかった。当時、そこまでお酒を飲んでなかった僕がなぜ肝機能障害?と思ったが肝臓と感情はつながっているらしく、まさにそれまでの深い闇の時間が影響していたのは確かであった。
原因がわかれば治療するか。その時30歳まで残り3ヶ月、30代を病気を言い訳に無駄にするか、もう一度再起してチャレンジするか、この二択しかその時の僕にはなかった。
結果、後者をとり、まずは身体を治すために知り合いのトレーナーの方に相談し、自然の近い茅ヶ崎に身をうつし、とにかく毎日トレーニングに励んだ。
もちろんいきなり動けるような身体ではなかったけど、幸いにも30歳まで3ヶ月というそう遠くない目標が自分の気持ちを駆り立てた。
今思えばアホな発想だが、わかりやすい目標として30歳のバースデーパーティーを自分でオーガナイズすること。ホテルのプールサイドで沢山の人を呼んでダンスパーティーをすること。そのためには身体は完全な健康状態でなければならないのでムキムキな自分もイメージし、それらを目標とした。
毎日トレーニングしていくことで身体は徐々に快方に向かっていったものの、未来が安定している訳でもないし、失ったものがかわってくるわけでもないので、打ちのめされるような夜も時々はあったが、それでも大きくない近い目標が自身の気持ちを奮起させてくれた。
やがて3ヶ月がたちバースデーパーティー前夜、参加表明をしてくれた200名以上の名簿を見ながら一人小さな部屋で魂から感謝の念で震えたのを今でも昨日のように覚えている。
夜の海にいき、失ったことや病気になった過去に、なんどもありがとう!といった。
あの時、この経験をしなかったら、今の喜びに気づくことも、仲間のありがたみに気づくことも、お金よりや地位や名声より大事な事に気づく事もなかった。だから、病気も別れも全てありがとう!と一人夜の海で泣き叫んだ。決して辛い涙ではなく、今までに感じたことのない清々しいほどに気持ちいい涙であった。
結果バースデーパーティーは沢山の仲間、先輩に囲まれて久しぶりのお酒で二次会では5分と持たずにつぶれてしまったそうだがそれまでの人生で一番ムキムキの身体で30歳を無事迎えることができたのは言うまでもない 笑
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今思えばなおさらだけど、この時の経験がなければ今の自分はひとかけらもないんだと思う。
だから、何か辛いことやうまく行かない時があっても、きっとそれは次のステージにいく直前で試されているんだって思うようにしている。
その起きた物事をどう捉えるかで全ての先が変わっていくんだと。些細な事だが、この砂漠での環境を最悪だ!このツアー失敗だ!って思うか、なんだかめちゃくちゃだけど楽しいし、ネタになるなぁ!って思うかでその先の未来は全く変わっていくと思う。
ある人はいった。世界が変わってもインドはずっと変わらないよ。
その昔アレクサンダー大王がインドにやってきてインドを変えようとしたが変える事はできなかった。英国もインドを変えようとしたがインドは変わらなかった。
人口は間もなく世界一、全インド人が何かしらの神を崇拝し、世界一の菜食主義で、IT経済の世界でも世界に大きく影響を与えているこの国が、未だに路上には物乞いがたむろし、ボロボロの電車やバスに箱乗りし、信号なんてないに等しい交通ルールで、列での横入りなんて朝飯前。全く秩序もへったくれもないように一見みえるインド人は常識的には理解しずらいし、軽い気持ちで観光にくるとありえないことの連発で打ちのめされるけど、そんな常識では計れないこのインドで起きる全ての事をどう捉えるかが、大げさではなく人生を歩む上でのキーなんだ!と特訓をされているような感覚になるのが不思議なところ。先人達もこんなインドに魅了されていったのではないか?と、少しずつインドに魅力に気づき始めていたのかもしれない。
ふと気づくと火は消えラクダも老人もそして青年もそのボロボロの布団で眠りについていた。
翌朝、目が覚めるとすでに老人が起きていて残り木で温かいチャイを用意してくれていた。砂漠の朝は非常に寒いが、砂糖たっぷりの甘いチャイがその分身に染みるほど美味かった。
案の定、帰りもギュウギュウ詰めの乗り合いのジープに乗せられたが、もうすでに起こる全てをアドベンチャーな感じで完全に楽しんでいる自分がいた。
街に戻ってバイクをレンタルし、広大な砂漠を滑走した。
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恐る恐る街中も走ってみたが、どこからやってくるかわからない人や車、犬や牛に注意を払いながら走ると意識が集中して覚醒状態になり、なんだか007みたいな気分になったし、街角で食べたラッシーのアイスみたいなものは世界一美味いのではないか?と思うほどだった。
夕暮れ時に、路地裏を青年と一緒に歩いていると可愛い現地の子供達が集まってきて、どうやら家にきてほしいと言っているようだった。
でも今ではなく明日の20時!Eat eat と言っているようだったのでそうかそうか、家に招待してくれてご馳走でもしれくれるのかな?と思って。わかった!明日いくよ!約束する!といってその場を去った。
そして、翌日待ち合わせの場所にいくと沢山の子供達がまっていてそのまま手をつながれて家まで向かった。
最初のうちはもうみんなアゲアゲで歌を歌ったり、踊ったり、みんな本当に楽しそうで素晴らしい時間で家にいた母親達も子供達が喜んでいるしと照れながらも嬉しそうであった。
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そして手作りのカレーとナンが出てきたあたりから何だか少し様子がおかしな空気になってきた。
子供達を囲む母親の中にさっきまでは見なかった人がまざっていた。
どうやら僕らの顔をじろっとのぞいている、僕らは目を合わせないようにしていたが、どうやらその女性が手を差し出しているので、そうか子供達へ何かご褒美でもほしいのかなぁっと思い、ちょっと待ってもってきたお菓子をあげるから、と青年がもってきたお菓子をだした途端にもぎ取るようにそれは奪われ、さらに私たちには?ないの?と言ってきているではないか…
これは何だか怪しいぞ、と思ったら時すでにおそく、さらに多くの母親達に集団で囲まれていて、その全員が手を差しだし、Eat 、Eat Money Money とまるでゴシップを起こしマスコミに囲まれつめられる芸能人のような感じになってしまった。
これは完全に騙された!と思いつつ、ご飯も途中ではあったが100ルピーだけ置いてその場を逃げることにした。
子供達はこの状況わかってやっていたのか?それとも純粋に遊びたかったのわからないが、僕らが去った後も再び宿の下まで僕らを呼びにきていたのをみると純粋に遊びたかったのではないか、とも思えたが、あえて聞こえないふりして戻ることはなかった。
その母親達にとっては生きる上で仕方のない行為かもしれないが親が子供の前で平然と人を騙すのを見せる環境が当たり前にあることがその時の僕達には複雑すぎて何とも言えない気分に陥った…
子供達を含め、信用したいけど信用できない…
異国の地を本当の意味で理解するのはとても難しく、一筋縄ではいかないものだ、とその青年と反省したのだった…
まだまだ未知の世界が続くインドの旅、予想の出来ない展開は この後何度も起こるのだった…
●小橋賢児(こはしけんじ)
俳優、映画監督、イベントプロデューサー。1979年8月19日生まれ、1988年、芸能界デビュー。以後、岩井俊二監督の映画『スワロウテイルバタフライ』や NHK朝の連続小説『ちゅらさん』、三谷幸喜演出のミュージカル『オケピ!』など数々の映画やドラマ、舞台に出演し人気を博し役者として幅広く活躍する。しかし、2007年 自らの可能性を広げたいと俳優活動を休業し渡米。その後、世界中を旅し続けながら映像制作を始め。2012年、旅人で作家の高橋歩氏の旅に同行し制作したドキュメンタリー映画「DON’T STOP!」が全国ロードショーされ長編映画監督デビュー。同映画がSKIPシティ国際Dシネマ映画祭にてSKIPシティ アワードとSKIPシティDシネマプロジェクトをW受賞。また、世界中で出会った体験からインスパイアされイベント制作会社を設立、ファッションブランドをはじめとする様々な企業イベントの企画、演出をしている。9万人が熱狂し大きな話題となった「ULTRA JAPAN」のクリエイティブディレクターも勤めたりとマルチな活動をしている。
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