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“スーパーフライ”ジミー・スヌーカ死去――「気楽にいこうよ」のハンドゼスチャーが忘れられない東京での一夜【フミ斎藤のプロレス講座】

 スヌーカはアメリカではシングルプレーヤーとして活動。1970年代後半はNWAミッド・アトランティック地区でのリッキー・スティムボートとの因縁の対決が南部一帯のドル箱カードだった。1982年、WWEと契約。ニューヨークのファンのあいだでいまも「心に残るワンシーン」として語り継がれる“マグニフィセント”ドン・ムラコとのケージ・マッチ(1983年10月17日=マディソン・スクウェア・ガーデン)では、金網の最上段から30フィート(約9メートル)飛行の伝説のスーパーフライを披露した。  WWE史においては、ボブ・バックランド政権時代のエピローグをささえた隠れた主役、“1984体制”から“レッスルマニア”第1回大会までのハルク・ホーガン政権誕生のプロローグでは“助演男優賞”的なポジションに立っていた。1996年、WWEホール・オブ・フェームで殿堂入りした。  1983年に全米ツアー中に死亡したスヌーカの元交際相手(当時)の死因が“事故死”ではなく、スヌーカによる“第3級殺人”または“過失致死”だったとして、事件・事故から33年を経て捜査が再開された「ナンシー・アージェンティーナさん事件」で、昨年、スヌーカは逮捕・起訴された。  しかし、2016年12月の裁判では、ケリー・L・バナック裁判長(ペンシルベニア州アレンタン地方裁判所)が「スヌーカの認知症」と「健康上の問題=末期ガン」を理由に審理不能で結審。裁判そのものがおこなわれなかったことで、スヌーカは事実上の無罪となった。
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一緒にイタリアンを食べた夜
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