“スーパーフライ”ジミー・スヌーカ死去――「気楽にいこうよ」のハンドゼスチャーが忘れられない東京での一夜【フミ斎藤のプロレス講座】
ぼくの手元に1枚の写真がある。デジタル写真ではなく、サービス版といわれるサイズのカラーの紙焼きで、右下にある日付は2001年11月22日。いまから15年ちょっとまえの写真だ。古い手帳で確認してみたら、2001年(平成13年)の11月22日は木曜日。アメリカのカレンダーでいえばサンクスギビング・デー=感謝祭の夜である。
スヌーカさんは「オレはサンクスギビング・デーに家にいて、ターキー(七面鳥)を食べたことなんていちどもない」と笑いながら話していた。プロレスラーは、サンクスギビングの夜に家で家族といっしょにターキーを食べることができない職業なのだ。
ぼくはその日、スヌーカさんとほかの何人かの友人たちといっしょに六本木で待ち合わせをした。翌日はFMWの横浜文化体育館大会。久しぶりの東京の夜だから、スヌーカさんはほんのちょっとっだけナイトクラビングをしたがっていた。スヌーカさんは当時、すでに58歳で、現役選手として日本に来たのはこのときが最後だったような気がする。
スヌーカさんが七面鳥ではなく「イタリアンでも食べよう」と提案したので、ぼくたちは『ハードロック・カフェ』からは大きな駐車場をはさんでとなりのブロックの『チャールストン・アンド・サン』という朝5時まで開いているイタリア料理店に入った。スヌーカさんが「ここはとてもいい店だ。ここでゆっくりしよう」と上機嫌だった。
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