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WCW崩壊のプロローグ――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第328回(2000年編)

WCWオフィシャル・マガジン表紙

“マンデー・ナイトロ”の番組視聴率の低下、PPV契約世帯数の急激な落ち込みのテコ入れ策としてWCW首脳陣がプロデュースした“大どんでん返し”はゴールドバーグのまさかのヒール転向だった(写真はWCWオフィシャル・マガジン表紙より)

 WWEのライバル団体WCW(ワールド・チャンピオンシップ・レスリング)は、あっというまに崩壊のスパイラルをころげ落ちていった。

 ジョージア州アトランタに本拠地を置くWCWは、“テレビ王”テッド・ターナーがNWAクロケット・プロモーション(ノースカロライナ州シャーロット)を買収し、1988年11月に発足。プロレス史の年表上では“世界最高峰NWA”の流れをくむ南部テリトリーのスピンオフとして誕生したメジャー団体だった。

 WWEとWCWの2大メジャー団体による“月曜TVウォーズ”がスタートしたのは1995年9月。後発のWCWが月曜夜のプライムタイムに新番組“マンデー・ナイトロ”(TNT=ターナー・ネットワーク・テレビジョン)の放映を開始し、WWEの“マンデーナイト・ロウ”に裏番組をぶつけたのがはじまりだった。

 ターナー系のグループ企業として豊富な財源をフルに活用してきたWCWに経費削減の辞令が下ったのは1999年9月。親会社のタイムワーナーはエリック・ビショフWCW副社長を解雇し、ターナー・エンターテインメント社のビル・ブッシュを執行副社長に任命した。

 同年10月、それまでWWE“ロウ”の番組構成を担当していた放送作家のビンス・ルッソーがクリエイティブ・ディレクターの役職でWCWに移籍し、翌11月にはTBSエンターテインメント社からブラッド・シーガル取締役が監査役(副社長待遇)として出向してきた。

 これらの人事異動は“ナイトロ”の番組視聴率の低下、PPV契約世帯数の急激な落ち込みに対するテコ入れであったことはいうまでもない。

 その後、ビショフが約7カ月間の冷却期間をへてエグゼクティブ・プロデューサーとして現場に復帰し、ルッソーと“新首脳コンビ”を結成。2000年4月17日放映分の“ナイトロ”(イリノイ州ロックフォード)でそれまでの連続ドラマのストーリーラインをすべて“破棄”し、同番組の新シリーズをスタートさせた。

 いまになってみると、この年の6.11PPV“グレート・アメリカン・バッシュ”(メアリーランド州ボルティモア)こそWCW崩壊のプロローグだった。

 この日、ハルク・ホーガンとリック・フレアーは“引退”をかけてそれぞれビリー・キッドマン、デビッド・フレアーとシングルマッチで対戦したが、アメリカのプロレス界の象徴的存在であるふたりの“引退マッチ”が動員した観客数は7031人。ビショフ&ルッソーの新政権は完全にファンの信頼を失っていた。

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