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武藤敬司が体感した“電波に支配されたプロレス”――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第327回(2000年編)

WCWオフィシャル・パブリシティ・フォト

武藤敬司は2000年、約半年間の予定でWCWを長期ツアー。グレート・ムタがそこで目撃したものは“電波に支配されたプロレス”だった(写真はWCWオフィシャル・パブリシティ・フォトより)

 武藤敬司は“浦島太郎”をエンジョイしていた。10年ぶりに内側からながめたWCWは、テレビの画面のなかだけに生息する映像作品になっていた。プロレスそのものがいつのまにかテレビ番組に化けていた。

 毎週月曜夜は“マンデー・ナイトロ”の全米生中継で、火曜の夜は“サンダー”(毎週木曜放映)の録画撮り。週末にはハウスショーもあることはあるけれど、TVカメラが回っていないところではなにも起こらない。

 すべてがテレビによってコントロールされていた。“ナイトロ”と“サンダー”の番組視聴率がクォーターアワー(15分)ごとのデータとなってはじき出される。それがプロレスとしておもしろかったかおもしろくなかったかは数字だけが答えになる。

 クリエイティブ・ディレイクターのビンス・ルッソーは数字がかせげるものには飛びつくけれど、数字になってはね返ってこないものにはまったく興味を示さなかった。

 知らないレスラーがずいぶん多くなっていた。バックステージをうろうろしている選手たちのほとんどは武藤よりも年下だしキャリアもずっと浅い。でも、こっちが相手のことを知らなくても、向こうはグレート・ムタのことをよく知っていた。

 みんながリスペクトしてくれるからドレッシングルームの居心地は悪くなかった。ムタとスティングの試合を観てプロレスにめざめた、なんてボーイズがたくさんいた。

 「だから助かってるんだ。貯金だよ」と武藤は苦笑いした。

 試合そのものは日本よりもアメリカのほうがマイペースにこなせる環境なのではないかと思っていたら、そこだけは計算が狂った。テレビ番組になってしまったプロレスは1分1秒の単位まで“フレーム”が刻まれていた。

 入場ランプに登場してから試合、退場までを“7分ジャスト”でまとめてくれといわれても、武藤にしてみればそういうテレビ的な発想がWCWを退屈なものにしているように思えて仕方がなかった。もちろん、どんなシチュエーションでも仕事はいつでもきっちりこなした。

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テレビに出るプロレスラーにとって、いちばん大切なことは…

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