ストーンコールド“時限爆弾”を抱えたカムバック――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第329回(2000年編)
連続ドラマの“主人公”がWWEのリングにリターンしてきたのは2000年10月。ストーンコールドのカムバックと同時に時計の針は“11カ月まえ”に巻き戻された。
デトロイトのジョー・ルイス・アリーナ駐車場で起きた問題の“ひき逃げ”シーンがくり返しくり返し“ロウ”と“スマックダウン”の番組内でオンエアされ、すべてのドラマは“ひき逃げ事件”の犯人探しへとリンクしていった。
ストーンコールドのドクターは、首の手術-引退-長期のリハビリをワンセットの治療計画ととらえていたが、ストーンコールドは「手術はするし、またリングにも上がる」と宣言し、じっさいにそのとおりになった。
元気になって帰ってきたストーンコールドは、まずビンスと再会を果たした。ロックに“疑惑”の目が向けられた。リキシが“ひき逃げ”の実行犯だったことを告白した。ロックとリキシの確執が“人種問題”に発展した。事件の“真犯人”がトリプルHだったことが発覚した……。次から次へとドラマが展開していった。
連続ドラマのひとつひとつのエピソードとそのディテールがものすごく重要かといえば、そういうわけでもない。どんなにたくさんのサイドストーリーがそこらじゅうに張りめぐらされていたとしても、最終的にそこでディスプレーされるのは肉体と肉体のぶつかり合い、つまりプロレスの試合である。
ストーンコールドは、リングに上がって試合をできるだけのコンディションでオーディエンスのまえに戻ってきた。
プロレスであっても、ソープオペラであっても、あるいはその中間あたりに位置するサムシングであっても、いちばん大切なことは、みんなに愛されるスーパースターがいつでもちゃんとテレビの画面に映っていることである。
奇跡のカムバックから半年後、ストーンコールドは“レッスルマニア17”(2001年4月1日=テキサス州ヒューストン)の大舞台で宿命のライバル、ロックと対戦。
アストロ・ドームに6万7925人の大観衆を動員し、ライブ興行収益425万ドル、PPV視聴契約95万世帯のダブル新記録を樹立(当時)。ストーンコールドは“大河ドラマ”ストーンコールドのクライマックスをみずからプロデュースしたのだった。
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文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
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