ザ・シーク 時代を超越した“アラビアの怪人”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第15話>
シークと試合をするということは、それがだれであっても大流血戦を意味していた。技らしい技はキャメルクラッチだけで、トレードマークの“火炎殺法”は年に数回のビッグショーのために温存された。
シークは凶器攻撃と場外乱闘だけの試合で隔週土曜のコボ・アリーナ定期戦(デトロイト)、隔週日曜のメープル・リーフ・ガーデン定期戦(カナダ・トロント)にコンスタントに1万人以上の観客を動員しつづけた。
ブルーノ・サンマルチノもアントニオ・ロッカも、ディック・ザ・ブルーザーもジョニー・バレンタインも、アンドレ・ザ・ジャイアントもジャック・ブリスコも、デトロイトとトロントではシークの凶器攻撃と“火炎殺法”のエジキになった。そういうプロレスが15年以上もくり返された。
トロントの大プロモーター、フランク・タニーFrank Tunneyはシークの観客動員力をビジネスとして高く評価した。
シークの本拠地ミシガン州とカナダ・オンタリオ州は国境をはさんで隣接しているため、シークと“シーク一座”は隔週ペースでデトロイトとトロントを往復した。
「レスラーだったらキャデラックに乗れ」と「レスラーは自動車で移動しろ」がシークの口ぐせだった。
凶器攻撃と場外乱闘だけのプロレスがどうしてそれほどの観客動員力を持っていたかというと、それはシークがほとんど絶対といっていいほどフォール負けを喫しないレスラーだったからだ。
観客はシークが完敗するシーンを待ち望んでいたが、どんなにビッグネームのスーパースターがやって来てもデトロイトではシークから3カウントを奪うことは“想定外”のできごとになっていた。
5年にいちどくらいのサイクルでシークがまれにフォール負けを許す相手は“宿命のライバル”ボボ・ブラジルだけで、シークとブラジルの因縁マッチは1990年代前半、ふたりが60代なかばに手が届くまでつづいた。
トロントではシークの“伝説の140連勝”という長編ドラマが観客の関心をひっぱりつづけた。
トロントでのシークの最大のライバルは、ベビーフェース・バージョンのタイガー・ジェット・シンだった。
デトロイトもトロントも1960年代から1970年代にかけてはNWA加盟テリトリーだったため、シーク対ドリー・ファンク・ジュニア、シーク対ハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級選手権も何度かおこなわれた。しかし、シークは、世界チャンピオンのドリーにもレイスにもフォール負けを許さなかった。
シークの49年間におよぶ現役生活のなかでそのピークはどのあたりだったのかというと、やはりデトロイトを中心とする五大湖エリアが全米屈指の人気マーケットだった1965年から1977年あたりまでの10数年間ということになるのだろう。
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