ザ・シーク 時代を超越した“アラビアの怪人”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第15話>
20世紀を代表するもうひとりの大悪役、フレッド・ブラッシーがそうであったように、シークもまた40代で全盛期を迎えたレスラーだった。
シークとブラッシーの大きなちがいは、ブラッシーがおしゃべりのできるヒールであり、ときとしてベビーフェースよりも愛されたヒール像だったのに対し、シークはただのいちどもマイクに向かってしゃべることなく観客の憎悪をあおったことだった。
シークはアリーナのなかだけでなく、空港でもホテルでもレストランでも決して“素顔”をみせなかった。
1日24時間、どこにいてもヒールとしてのキャラクターを演じつづけるという哲学は、1970年代から1980年代にかけてはまな弟子であるアブドーラ・ザ・ブッチャー、T・J・シンのふたりに受け継がれていく。
インド系、パキスタン系人口が多いトロントではベビーフェースだったシンは、日本に来るときだけ服装、歩き方、宝石類と貴金属の身につけ方からリング上でのファイトスタイル、大流血シーンにまで徹底的にシークのそれをコピーをした。
デトロイトのスタンダードだったシークの“3分間プロレス”が終えんを迎えるのは、1981年のことだった。
ケーブルテレビが普及しはじめ、デトロイトだけでなくミシガン州全域、おとなりのオハイオ州やインディアナ州でWTCG(ターナー・コミュニケーション・グループ=ジョージア州アトランタ)のプロレス番組が観られるようになった。
プロレスファンは、シークのプロレスだけがプロレスではないことを知ってしまった。
1980年代に入ると、シークはアンダーグラウンドのインディー・シーンに潜った。甥のサブゥー、ミシガン大レスリング部出身のスコット・スタイナー、ロブ・ヴァン・ダムRob Van Damらがシークのマンツーマンのコーチを受けてデビューした。
そして、1990年代になるとシークを心から崇拝する日本人プロモーターが現れた。新団体FMW(フロンティ・マーシャルアーツ・レスリング)を設立したばかりの大仁田厚だ。
シークが甥サブゥーとともにFMWのリングに初登場するのは1991年。67歳(当時)だったシークは大仁田を下しWWA世界マーシャルアーツ王座を獲得(1992年6月25日=札幌)。
“川崎球場伝説”ではテリー・ファンクと対戦(1994年5月5日)。翌1995年5月、川崎球場でダミアンと対戦した試合が事実上の引退試合だった。
●PROFILE:ザ・シークThe Shiek
1924年6月9日、ミシガン州ランシング出身だが公称“シリア出身”。本名エドワード・ファーハット。1949年、デビュー。1964年から1981年までデトロイトのプロモーター・レスラーとして活動。1972年(昭和47年)9月、日本プロレスに初来日。坂口征二を下しUNヘビー級王座獲得。1973年(昭和48年)からは全日本プロレスにレギュラー参戦。翌1974年(昭和48年)10月、新日本プロレスに1シリーズのみ出場。1977年(昭和52年)12月、全日本プロレス『世界オープン・タッグ』でのドリー&テリーのザ・ファンクスとの死闘(パートナーはアブドーラ・ザ・ブッチャー)は日本プロレス史に残る名勝負として語り継がれている。1995年(平成7年)、日本滞在中に心臓発作で倒れたが一命をとりとめた。1998年(平成10年)、49年間の現役生活に終止符を打ち引退。FMWのリングで引退セレモニーをおこなった。2003年1月19日、死去。78歳だった。
※文中敬称略
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文/斎藤文彦
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