ジョニー・バレンタイン “妖鬼”の毒針殺法――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第19話>
バレンタインが日本に持ち込んだUSヘビー級王座のルーツに関してはトロント版(1962年)、オハイオ/ミシガン版(1964年)のふたつの説がある。
このベルトはバレンタインの“名刺”のようなものだったのだろう。シカゴ(1958年)とノースカロライナ(1975年)でも同名タイトルを保持していたという記録が残っている。
日本プロレス末期、キラー・カール・クラップとのコンビで大木金太郎&坂口征二を下しインターナショナル・タッグ王座(1973年=昭和48年2月22日、大阪府立体育会館)、坂口を下しUNヘビー級王座を獲得したこともあった(1973年=昭和48年3月2日、横浜文化体育館)。
1975年10月4日、運命の日が訪れる。バレンタイン、リック・フレアー、ミスター・レスリング(ティム・ウッド)らを乗せたセスナ機がノースカロライナ州ウィルミントン近郊に墜落した。
バレンタインは背骨3カ所、両足首、手を骨折。バレンタインのすぐ後ろの座席に座っていたフレアーも背骨を骨折する重傷を負った。
セスナ機に搭乗直前、バレンタインとフレアーはなぜか席を交代し、バレンタインがパイロットのとなりの助手席、フレアーが後部座席に移動していた。
この事故が原因でバレンタインは引退。2度と自分の足で歩くことはなかった。
大ベテランのバレンタインと若手のフレアーはこの事故の1カ月まえにノースカロライナでタッグチームを結成したばかりで、バレンタインはフレアーのアドバイザー役をつとめていた。
フレアーは悪夢のセスナ事故から1年後に奇跡的なカムバックをとげ、バレンタインが「この男のマネをしてみろ」と提案した“ネイチャー・ボーイ”の道を歩みはじめるのだった。
●PROFILE:ジョニー・バレンタインJohnny Valentine
1928年9月22日、ワシントン州シアトル出身。本名ジョン・セオドア・ウィスニスキー。15歳でスタニスラウス・ズビスコにスカウトされ、1947年にブエノスアイレスでデビュー。USヘビー級王座、インターナショナル王座(モントリオール)、NWF世界ヘビー級王座(通算2回)、NWFノースアメリカン王座(通算2回)。USヘビー級王座などを保持。息子グレッグ・バレンタインも1980年代のスターだったが、バレンタインの現役時代は血縁関係は公表されず、グレッグはジョニーの“弟”“甥”を名乗った。2001年4月24日、死去。享年72。
※文中敬称略
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文/斎藤文彦
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