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カート・ヘニング “ミスター・パーフェクト”という生き方――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第70話>

 いま30代後半から40代くらいのアメリカのプロレスファンに「子どものころに観たいちばんの名勝負は?」と質問したら、おそらく10人のうち9人は迷わず“ミスター・パーフェクト”対“ヒットマン”ブレット・ハートのインターコンチネンタル選手権(1991年8月26日=マディソン・スクウェア・ガーデン“サマースラム”)と答えるだろう。  ヘニングとブレットのシングルマッチは、完ぺき主義者と完ぺき主義者の完ぺきな試合だった。  パーフェクトなバンプをとりつづけいたヘニングは、試合中のちょっとしたミスムーブが原因で尾てい骨を亀裂骨折。ケイ椎下部(首)は椎間板ヘルニアを併発していた。  “ミスター・パーフェクト”を演じることができなくなったヘニングは、地元ミネアポリスの“ブラッド・レイガンズ道場”で“完ぺきなコーチ”に変身し、ドン・フライ、ブライアン・ジョンストン、ブロック・レスナーらにプロレスを教えた。  首、腰の故障に悩まされたレスラーだった。1990年代後半は長期欠場―復帰―欠場をくり返した。  WWE退団後はWCW、新日本プロレスのリングにも上がったが“ミスター・パーフェクト”としてのファイトはできなかった。  2002年1月、9年ぶりに古巣WWEに復帰し“ロイヤルランブル”に出場したのが現役生活の最後のハイライトだった。  ヘニングはハイスクール時代からのガールフレンドのリオニースさんと19歳のときに結婚し、23年間、初心を貫いた。  家庭では“完ぺきな夫”であり、4人の子どもたち――長男ジョー、長女エイミー、次女ケイティ、次男ハンク――の強くて正しい“完ぺきな父親”だった。  “ミスター・パーフェクト”はだれにもグッバイを告げずに突然、この世を去った。  その日、ヘニングはフロリダ州タンパで試合をする予定だった。  いっしょにジムへ行く約束をしていたレスラー仲間がヘニングをホテルまでピックアップに来たが、予定の時間を30分過ぎてもヘニングがロビーに現れず、部屋の電話にも携帯電話にも出ないため、ホテルのスタッフに部屋のカギを開けてもらったら、ヘニングは眠ったような顔でベットによこになっていた。  ヘニングは使い慣れたスーツケースを持って家を出たまま、永遠の旅に出てしまったのだった。  ヘニングが44歳でこの世を去ったとき23歳だった長男ジョーは、父親の死後、プロレスラーになる決心をした。  ジョーのリングネームはカーティス・アクセル。ファーストネームのカーティスは父親から、ラストネームのアクセルは祖父ラリー・ヘニングのニックネームだったアックスからもらった。 ●PROFILE:カート・ヘニングCurt Hennig 1958年3月28日、ミネソタ州ロビンズデール出身。本名カーティス・マイケル・ヘニング。父親は1960年代に活躍した名レスラー、ラリー・ヘニング。1980年1月、デビュー。AWA世界タッグ王座(パートナーはスコット・ホール)、AWA世界ヘビー級王座、インターコンチネンタル王座(2回)保持。ニックネームは“ミスター・パーフェクト”。得意技はパーフェクトプレックス。2003年2月9日、フロリダのホテルで急死。 ※文中敬称略 ※この連載は月~金で毎日更新されます 文/斎藤文彦
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