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リック・フレアー ザ・グレーテスト・レスラー――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第73話>

 初来日は、ちょっと意外な感じはあるが、国際プロレスの“ビッグ・サマー・シリーズ”(1973年=昭和48年6月)。キャリア6カ月のルーキーとして日本にやって来たフレアーは、あのラッシャー木村と金網デスマッチで闘い、生まれて初めて大流血戦を経験した(同6月26日=大館)。  このときのシリーズの看板外国人レスラーは“兄貴分”ダスティ・ローデス&ディック・マードックのザ・テキサス・アウトローズだった。  1975年10月4日、フレアーと3人のレスラー仲間たちを乗せたセスナ機がノースカロライナ州ウィルミントン近郊に墜落し、背骨を3カ所骨折したフレアーは医師から再起不能を宣告された。  同乗していたジョニー・バレンタイン、ボブ・ブラッガーズBob Bruggersはこの事故で重傷を負い引退。  もうひとりの同乗者ティム・ウッズ(ミスター・レスリング)は、ケガを隠して3週間後に現場復帰した。フレアーはこの事故の“映像”をひじょうに鮮明に記憶している。  約4カ月間のリハビリ期間をへてフレアーは戦列にカムバックしたが、結果的にこのときのリハビリと減量が“中アンコ型”だったフレアーの上半身をみごとな“逆三角形”に変えた。  フレアーが腰に巻いた最初のチャンピオンベルトは、リック・ホークとのコンビで保持したミッド・アトランティック・タッグ王座(1974年)。  その後、ミッド・アトランティックTV王座(1975年)、NWA世界タッグ王座(1977年=パートナーはグレッグ・バレンタイン)、NWA・USヘビー級王座(1977年)を獲得しNWA世界ヘビー級王座に照準を絞っていった。  死と直面した悪夢の飛行機事故は、まさに人生の大きな転機となった。フレアーが“ネイチャーボーイ”としての道を歩みはじめるのはここからだった。  フレアーが初めてNWA世界王座を手にしたのは、飛行機事故から6年後の1981年9月17日、ミズーリ州カンザスシティーでダスティ・ローデスを下した一戦だった。  カンザスシティーのプロモーターでNWA会長(当時)だったボブ・ガイゲルは、フレアーの全米レベルでの観客動員力を疑問視したひとりだった。  フレアーは、デビッド・フォン・エリックDavid Von Erich(ダラス)、テッド・デビアス(セントルイス)、トミー・リッチTommy Rich(アトランタ)といったNWA主要テリトリーの“チャンピオン候補”を押しのけ、32歳でアメリカのレスリング・ビジネスの頂点に立った。  同年6月にハーリー・レイスを破りチャンピオンになったばかりのローデスは、わずか3カ月で失脚。フレアーとローデスの“愛憎関係”はそれから20年間もつづいていく。  メジャー団体WCWの“12年史”は、意外にもフレアーにとっては苦悩と屈辱のチャプターになっている。  1988年11月、ターナー・エンターテインメント社がNWAクロケット・プロを買収し、新会社ワールド・チャンピオンシップ・レスリングWorld Championship Wrestlingが誕生した。  同団体の初代社長に就任したジム・ハードJim Herdは、フレアーにトレードマークのブロンドのロングヘアを切ることと“スパルタカス”というリングネームへの改名を命令した。
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WCW新社長のプロレス知識は乏しかった
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