リック・フレアー ザ・グレーテスト・レスラー――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第73話>
セントルイスのローカル・テレビ局KPLRの局長の経験を持つハード社長は、ヘッドハンティングされる形でWCWにやって来たが、プロレスに関する知識は乏しく、フレアーのプロレスラーとしての実績、商品価値、ステータスにも無関心だった。
フレアーはハード社長との対立からWCWを解雇され、チャンピオンベルトを持ったままWWEに移籍した(1991年9月)。WWEではホーガンとの“世紀の一戦”が実現したが、名勝負は生まれなかった。
1993年2月に古巣WCWに復帰後は、エグゼクティブ・プロデューサーのエリック・ビショフEric Bischoffとの確執がはじまる。
ターナー・グループ企業の“プロレス事業部”“プロレス番組制作部”だったWCWは、つねにプロレスラーよりも高いポジションに背広組のプロデューサーをレイアウトしていた。
番組制作費はいくらでも使えるようなシステムだったし、契約選手の年俸も高かったが、現場のモチベーションは低かった。
フレアーからみればハードもビショフも、また1990年代後半に暗躍した“放送作家”ビンス・ルッソーVince Russoも、たまたまそこにいたシロウトでしかなかった。
WCWはレスリング・ビジネスのダイナミズムをまったく知らないエグゼクティブに支配されつづけた企業だった。
WCW崩壊―WWEによる買収成立後、フレアーは、現役生活の最後のチャプターとしてWWEのリングを選んだ(2001年11月19日=ノースカロライナ州シャーロット“マンデーナイト・ロウ”)。
フレアーは“リック・フレアー”を心からリスペクトしているたくさんのボーイズに囲まれて“リック・フレアー”の伝説を生きることを選択した。
フレアーは自伝本『トゥー・ビー――』の最後のページでこう語っている。
「ハルク・ホーガンは、私が手にしたものを決して“買う”ことはできないだろう」
フレアーにとって、永遠のライバルはやっぱり同時代を生きたもうひとりのスーパースター、ホーガンなのだろう。
●PROFILE:リック・フレアー Ric Flair
1949年2月25日、テネシー州メンフィス生まれだが、ミネソタ州イダイナの養父母のもとで育つ。本名リチャード・モーガン・フレイアー。1972年12月、デビュー。ニックネームは“ナイチャーボーイ”。得意技は足4の字固め、バックハンド・チョップ。パンプ=受け身の達人で“やられ芸”も売りもの。NWA/WCW世界王座通算17回保持。2008年(個人枠)と2012年(フォー・ホース・メン)にWWEホール・オブ・フェームで殿堂入り。2012年12月、引退。
※文中敬称略
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文/斎藤文彦
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