更新日:2022年12月26日 01:25
エンタメ

東日本大震災の翌日に人生を賭けたライブがあった<マキタスポーツ芸人21年史 その3>

 オフィス北野を退所することになったマキタスポーツは「自分の人生は10年ごとに大きな転機が訪れる」と語る。マキタの芸人人生21年を振り返る特別企画の第3弾は、世間の人がマキタスポーツという存在を認知するきっかけとなった「音楽ネタ」の誕生のきっかけに迫る。

2013年1月のマキタスポーツ。『週刊SPA!』でのオードリー・若林正恭さんとの対談のときに撮られた1コマ

 自らのバンド『マキタ学級』を率いて活動を続けるも、なかなか世間に届かない日々を送っていたマキタ。当時は「事務所は自分のことを理解してくれない」とセルフプロデュースに邁進していたが、好調だった自らの主催イベント「マキタ学級大文化祭」が2009年に赤字になり、「芸人としてプロになってから初めてバイトをした」という状況に陥った。だが、その苦境からすぐに立ち直り、芸人として、役者として「売れていく」ことになる。その転機はなんだったのか? 「あの当時にね、サンボマスターとか銀杏BOYZもそうなんだけど、京都の同志社の学生たちが結成したバンドの『モーモールルギャバン』を見たときに『これはかなわないな』と思って。自分たちが本気でやってなかったわけじゃないけど、自分たちがバンドとして一皮むけるより、オーガナイザーをやることに力を注いじゃっていたのかな。借金も抱え、子供も一人増え。でも、自分には芸人として、本当に純粋に音楽とかエンターテインメントをやってるやつとは違う熱の使い方があって、『そろそろだな』と思ったんですよ」  バンド活動を一旦停止し、その代わりバンドで培ってきたものを芸人・マキタスポーツひとりのネタのために練り直すという作業に入る。だが、バンドメンバーたちは、当時も今もマキタをバックアップし続けている。 「『広告塔になって売れるから支えてください』とメンバーたちに伝えて。それが2009年からですね。一番最初にやったことは『音楽ネタを特化してやる』ということ。ひとつ看板を背負うと言うことが見えやすくなるよね、と。でも、そこまではセルフプロデュースでした。途中、マネージャーが替わって、俺も背水の陣ならその男も背水の陣だったわけですよ。『マキタさんが本気で売れたいと思うなら、会社をその気にさせましょう』って言われて。俺もそれまでは会社と喧嘩ばかりしていたけど、会社に理解される方向をとりたい、と」  そうして始めたのが「オトネタ」というライブである。「ヒット曲の法則」など、単なる音楽モノマネではない楽曲分析を元にした音楽ネタは、これまでのお笑いの世界にはなく、新鮮で注目を集めた。 「ライブも、大赤字になることはなかったんだよね。そういう実績を作った上で、マキタスポーツも心を入れ替えたと会社には見えたんですかね(笑)。そして、北沢タウンホールで初の完全ソールドアウトのフルハウス。形だけのソールドアウトではなくてすごい期待を感じるソールドアウトでしたね。風向きが変わり始めてきていると」
次のページ right-delta
勝負に出た途端に…
1
2
すべてのJ-POPはパクリである 現代ポップス論考

「ヒット曲にはカノン進行が多い」を世に知らしめた名著が文庫化!

おすすめ記事