更新日:2018年05月03日 01:09
エンタメ

48歳、分裂していた自分に血が通ってきた<マキタスポーツ芸人21年史 その4>

 オフィス北野を退所することになったマキタスポーツの芸人人生21年を振り返る特別企画もいよいよ最終回。長い苦労を経て「売れた」マキタが見えた世界とは?

2013年、『週刊SPA!』でのオードリー・若林正恭さんとの対談のときの1コマ

 現在、マキタスポーツはプチ鹿島、サンキュータツオとともにTBSラジオで『東京ポッド許可局』という番組を持っている。だが、この番組はもともとポッドキャストで勝手に始めたものだった。 「『東京ポッド許可局』は2008年から、3人で喫茶店に集まってICレーコーダーで録音して、ポッドキャストで勝手にネット配信し始めました。デビューして10年目ぐらいですね。僕が言う『第二芸能界』的な場、オルタナティブですよね。『第一芸能界』に行けないからやってたわけですが、始めて3年目ぐらいで日比谷公会堂でイベントをやったら2000人が集まった。ネットの中にあるもののほうが熱を帯びているというのを自然と感じましたよね」  その後、2011年からはマキタが忙しくなり、夜中の2時くらいに3人で集まって収録をしていたというが、2013年にTBSラジオで地上波に進出することになる。その同じ年には映画『苦役列車』でブルーリボン新人賞を取るなど、役者としての活躍がめざましくなる。だが、役者になるというのは本人としては想定外なことだったようだ。 「役者に関しては目指したことがなかったので、これはうれしくもあり、なんか変な感覚なんですよ。自分の手柄感が少ないな、と(笑)。それまではお笑いにせよバンドにせよ、『失敗も成功も全部、自分の力』という気分でいたわけです。ところが役者の仕事はメンタル面での訓練にもなったというか、『仕事は他の人がいて成立しているんだな』というありがたみを初めて分かりました。役者の仕事は極めて受け身的というか、自分がキャスティングするわけじゃない。自分がキャスティングされる側だからね。与えられた台本を覚えて、芝居を作ると言うことはきわめて受け身だなと。自分で台本を書くわけでも、監督するわけでも、編集するわけでもない。自分で作っているという感覚がないのに、評価を得るというのが不思議な感覚と体験で。これが『第一芸能界』の入り口に立ったという感覚があって、こうやって雇用とかニーズとかが生まれていくのか、そういう仕組みがようやくわかるようになりましたね」
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