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「どこへ出しても恥かしい70歳」友川カズキとは何者なのか?

 友川カズキという人物を知っているだろうか。秋田県出身。詩人でありミュージシャンであり画家という、様々な才能を持ち比類なき世界観で根強いファンを持つ。  今年2月から公開されている主演作、ドキュメンタリー映画『どこへ出しても恥かしい人』では、友川氏の最大の関心事である競輪に狂う日々が描かれ、話題を集めている。  70歳になる現在も川崎の小さなアパートに住み、スマートフォンはおろか携帯電話もパソコンも持たず、毎日のように競輪に勤しむ。そんな無頼な生活を送る彼の半生に迫ってみた。

衝撃的だった、ある詩人との出会い

友川カズキ

友川カズキ

 さまざまな表現活動を行う、友川氏が初めて芸術を意識したのは中学生の時だった。 「はじまりは中原中也です。秋田の田舎で育って、本を読む人なんて周りにいなかった。たまたま読んだ『骨』という詩の『ホラホラ、これが僕の骨だ』ってのにガーンと衝撃を受けました。  中学生でバカだったから意味は全然わからなかった。素養があれば理解もできたのかもしれませんけど、わからないからこそ衝撃が凄かったですね。すごい言葉ですよね、客観的に自分を見ているあの感覚」  その時のことを、つい昨日受けた衝撃のように熱っぽく語る。 「そこから、中原中也を軸に小林秀雄や大岡昇平を読み漁ってね。自分でもノートに詩を書き始めたんです。高校生の頃に高橋和巳を読んだときには『難しいけど感じるものがある』と思ってました」と、感覚的読書で文学に耽溺していったという。

最も世に知られる音楽家としての姿

友川カズキ

ミュージシャン・宇崎 竜童に見出され歌手デビューを果たす

 そんな友川氏は音楽家としての顔も持つ。音楽を始めたきっかけもまた、ある人物との“出会い”だった。 「初めて音楽を意識したのは、高校生のとき。ラジオから流れてきたジャニス・ジョプリンですね。あの声はいまだに一番好き。トム・ウェイツもいい声ですね。  その後、上京して飯場にいたとき、居酒屋の有線放送で岡林信康の『山谷ブルース』が流れて。歌詞で『今日の仕事はつらかった、あとは焼酎をあおるだけ』ってのがあって、“これ俺のこと言ってる!”って思ったんです。それまでのフォークって『この野原いっぱいに』みたいな、まあ、ツルンとしたウンコみたいなもんじゃないですか(笑)。だから“これが歌になるのか!”ってビックリしました」  岡林信康との出会いから独学で音楽を始めた友川氏は数年後、当時のアルバイト先で知り合ったミュージシャン・宇崎竜童氏に見出され、歌手デビューを果たした。  その数年前から、日本では全共闘運動や大学紛争が巻き起こり、若者が社会的メッセージを強く発信するようになっていた。そうした中でリリースした「トドを殺すな」(1976年)などの楽曲に対して、社会的なメッセージを勘ぐろうとするリスナーもいたそうだ。 「全然ないの。自分のことを歌ってるだけで、社会性のあるような歌は全くない。当時フォークが流行ってたけど『みんなで幸せになる』みたいに歌ってるのは、能天気にもホドがあると思ってましたから」  そのスタンスは「私には主義主張なんて一切ないです。デタラメを書いて歌ってるだけで、全部感覚。(中原)中也の『ホラホラ、これが僕の骨だ』と同じで、聴いてくれる人の中に、ぼんやりと小さな映像が浮かべばいいなと思うだけです」と、子供の頃に受けた衝撃がそのまま続いていることがわかる。  友川氏の曲が、一躍世間に広まったのが1977年の大晦日。作詞作曲を手がけた『夜へ急ぐ人』を「第28回NHK紅白歌合戦」で、ちあきなおみが歌うことになったのだ。 「楽曲を依頼されてから、ちあきさんのライブに行ったのですが、歌っている姿がジャニス・ジョプリンに重なって見えてね。とんでもない才気の持ち主でした」と、ちあきなおみから受けた感動を語る。 「その年の紅白は自宅で見ていてね。“電卓を買わなきゃ!それから、銀行口座もいくつか作った方がいいかな”と思いました(笑)。もうお金のことしか頭になかった(笑)」と当時を振り返った。
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競輪にしかないドラマ…本命には手を出さないワケ
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