恋愛・結婚

見知らぬ住宅街に放置された酔っ払い。そして訪れた突然の便意…

電車でダメならタクシーで

 迷惑極まりないのでわたしたちはマッチにカラオケをすすめた。 「もう~~酔い覚ましに歌えば?」 「ていうか酔ってるマッチなんて歌わないとただのダメな人なんだから」 「そうそう、歌だけは上手いんだから」 「歌だけはね」  呆れてみんな言いたいことを言う。 「わぁーったよ! なに歌えばいいんだよコラ」  ようやく反応してくれたので、彼お得意の『ひまわりの約束』を入力する。入力したが、曲が始まる前にマッチは覚束ない足取りで店を出て行った。もちろん会計は終わっていない。 「あとで請求する」  マスターはげんなりした顔でそう呟いた。重たいため息の落ちたカウンターの上には、マッチのスマホがぽつんと取り残されていた。もういちど、ため息が出た。  店を出たマッチは、よろよろと駅のほうへ向かった。まだギリギリ電車もあったが、電車に乗れる気がしない。そもそも電車に乗るからいけないんだ。行き先を告げるタクシーならば変な場所にたどり着くこともない。マッチは駅前のロータリーでタクシーに乗った。 「自由が丘」  そう言ったつもりだった。と後になって彼は言うが、たぶん全然言えてなかった。 「お客さん、着きましたよ」  運転手にゆすり起こされて、財布はポケットに入っていたので慌てて料金を払ってタクシーを降りた。辺りは暗い。冷たい風に頬がさらされて、すこしだけ酔いが冷めた気がする。それにしても辺りは暗い。住宅街だ。駅じゃなくてちゃんと住所を言ってたのか俺。自宅をさがすように周囲を見回す。見当たらない。見当たらな……ない。違う。ここは俺の住んでる住宅街じゃない! 「どこだよここは??」  住宅街であるというだけで、てっきり自宅の近くだと思いこんでいたが、よく見るとぜんぜん違う。どれもこれも見たことがない。にわかに不安が立ち込める。とりあえず自分の位置情報をしろうとスマホをさがした。そこで、店に忘れてきたことにやっと気が付いた。駅ならまだ良かった。何かしらの電車に乗ればどうにか帰ることができる。しかしこんな暗い住宅地ではどの方向に何があるのかさえわからない。

そして便意がやってきた

 さらに深まる不安と共に、便意まで込み上げてくる。ウンコがしたい。ここはどこなんだよ。ウンコがしたい。  トイレなんてまったく見当たらない。駅ならよかったのに、と余計に強く思った。便意というのは不思議なもので、一度したいと自覚してしまった瞬間から急激に波が押し寄せる。マッチは前かがみになったままとにかく歩いた。トイレを求めて。だがトイレはなく、まだまだ続く住宅街。  もう限界だ、とあきらめかけたマッチの先には希望の光が灯っていた。自販機があった。もうこれしかない、と思った。マッチはポケットを探って小銭を取り出し、缶コーヒーを一本買った。勢いよくプルタブを開け、一気に飲み干す。これでよし。そのままズボンを下ろし道端にしゃがみ込む。そう。住宅街だろうと何だろうともうここでするしかないのだ。幸い深夜で辺りは人っ子一人歩いていない。マッチは意を決して、そのままひり出した。  ここからが先ほどの缶コーヒーの空き缶の出番である。ティッシュなんか当然持っていなかったマッチは、自身の尻を空き缶のヘリで掬い取るように丁寧に拭った。排泄を終えると、何事もなかったかのようにズボンを上げて立ち上がる。  ようやくスッキリした。まだだいぶ酔ってはいるが、これで落ち着いて駅を探すことができる。マッチは尻を拭った空き缶をそのまま地面に置き去り、ゆったりと住宅街を歩き進んだ。落ち着いて歩いてみると、意外にすんなり大通りに出て、通りはそのまま駅へ続いていた。やっぱり電車がいい。と思ったが、電車はとうに走っていなかったので、そこからまたタクシーを拾う羽目になった。そこからは無事に自宅へと帰還できたそうだ。  翌日、酒が抜けて冷静になったマッチの頭には「俺は五十代で野グソをした」という事実がずっしりとのしかかってきたと、会計を済ませに来た折りに語っていた。  しかしまたその日もマッチが浴びるほど酒を飲んだのは言うに及ばない。<イラスト/粒アンコ>
(おおたにゆきな)福島県出身。第三回『幽』怪談実話コンテストにて優秀賞入選。実話怪談を中心にライターとして活動。お酒と夜の街を愛するスナック勤務。時々怖い話を語ったりもする。ツイッターアカウントは @yukina_otani
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