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3・11から十年。原発、住宅の除染、インフラ整備、問題解決には程遠い

’11年3月11日の東日本大震災から十年。南相馬で被災したご夫婦の自宅にあった時計の針は、地震が発生した14時46分直後で止まっている。NHKが全国で行った世論調査(’20年11月11日~12月18日、有効回答者数2311人)では、約3割が津波による被災地の復興が「進んでいない」、6割超が原発事故の除染が「進んでいない」と回答した。
鈴木涼美

撮影/有高唯之

無邪気な夢の弾む素敵な時代へ

 記者クラブから本社ビルに歩いて戻って26階分の階段を登った、と自分の記憶を簡潔に説明できるというのもあって、「あの日のあの時間、何してた?」と今でもよく人に聞く。  その日たまたま非番だったという私のネイリストさんは、美容室で髪を染めている最中にお湯が出なくなったうえに、そのうち避難命令が出て、ビルの外にある水道でカラー剤を洗い流したというし、私の旅行友達は銀座の脱毛サロンで紙パンツ一丁で施術を受けていた。独立して4か月だったホストは焦って様子を見に行った店の酒瓶が全て棚から落ちていたらしいし、プレイ直前でシャワーを浴びていたデリヘル嬢は急いで客とホテルを出たため、プレイなしでお金は満額もらっちゃったと言っていた。  震源地からずいぶん離れた東京で、その日から十年経っても、何をしていたか忘れちゃったという人に会ったことがない。次の日の朝に寄ったコンビニの冷蔵の棚には使い切りタイプのドレッシングが虚しく数袋残っていただけだったことも、会社のバイトに何でもいいからと食べ物の調達を頼んだら牛丼を見つけてきてくれて感動したことも、鮮明に覚えてはいるけど、それでもあれから十年経った。  日本は長く、「戦前」「戦時」「戦後」という区分で物事を考えてきた。大きなレジームチェンジがあったのだからそれはそうだが、終わりの日が区切られた「戦前」「戦時」と違って、「戦後」は区切りがない。 「長すぎた戦後」「戦後のその先」といった言葉を新聞で見かけることはあるが、言葉通りにとれば永遠に戦後である。だから震災にしろコロナにしろ、長いのは以後なのであると言いたくなるが、原発事故があった福島出身の大学教員である知人は「戦後」に似たようなものではないのだという。  甚大な被害があった場所は「震災時」という定点がなく、よって今も「震災後」にはなりきれていないのだという彼の言葉は重く、確かに例えば黒船が来たとか、例えば玉音放送が流れたとか、あるいはGHQが入ってきたとかいう形で、何か時代に区切りがついたわけではない。一部の被災地の人は未だ、戦争で言えば戦時、災害の中にとどまらざるを得ない状況にある。  双葉町の住民が多く避難していた加須市に取材に通っていたとき、女が取材に来たと喜ぶおじいちゃんたちや、化粧品の通販がちゃんと届いたと喜ぶギャルの姿に、人間の底力を感じたけれど、折れないほど強いということは、折れずに生き続けなければいけないということでもある。  復興事業によって、過疎化していたかつての状態より表面上は綺麗な街になった場所もあるし、全域で避難指示が出ていた双葉町でも一部で規制が緩和された。原発事故の伝承施設ができたし、ボランティア機運が活性化する契機にもなったし、震災からコロナ禍にかけて寄付の文化は少しずつ根付き出した。  ただ、住宅の除染やインフラ整備など道半ばの問題もあれば、そもそも日本が原発とどう付き合うかについて、勇み足の政治に民意が反映されている気はしない。戦後、災害継続中、そしてウィズコロナと、今の時代を説明する言葉は増える一方で、その言葉を脱する問題解決はどれもこれもほど遠い。  新しい問題に関心が向くのは当然だが、政治家やマスコミは人の興味とともに言葉を勝手に上書きしてはならない。今のところ、タイムマシンがないことだけは確かで、時代に付けられた言葉を上書きにするには、落ちている問題全てに根気強く答え続けるしかない。 ※週刊SPA!3月9日発売号より
’83年、東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。専攻は社会学。キャバクラ勤務、AV出演、日本経済新聞社記者などを経て文筆業へ。恋愛やセックスにまつわるエッセイから時事批評まで幅広く執筆。著書に『「AV女優」の社会学』(青土社)、『おじさんメモリアル』(扶桑社)など。最新刊『可愛くってずるくっていじわるな妹になりたい』(発行・東京ニュース通信社、発売・講談社)が発売中

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