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「なぜ、私は原発を止めたのか」元裁判長がすべての日本人に知ってほしいこと

骨太な議論をして欲しい

(c)Kプロジェクト

――なぜ、そのような事態が起きてしまうのでしょうか。 樋口:原発の耐震性が高いのか低いのかに注目する発想がなかったからです。そして、裁判官も当事者の主張を元にして審理をするので、耐震性が高いのか低いのかについては着目してこなかったのです。 このような基本的で単純明快な議論は、地震学に精通した勉強熱心な弁護士ほど受け容れがたいようです。しかし、この映画のプロデューサーの河合弘之先生はすぐに納得してくれました。 「難しい技術的な理論を主張して負ける」という流れを止めるには、わかりやすくシンプルな理論を打ち立てて、その理論で勝訴するしかない。そして、原発訴訟において勝てる理論とは、私が大飯原発訴訟で打ち立てた樋口理論だと思っています。 地震学の中に「強震動予測」という分野がありますが、それは決して最高の地震動を求めるものではなく、平均的な地震動ははどれぐらいかを求める学問です。 原子力規制委員会は地震規模の判断の際に地震学において定評のある松田式を用いています。松田式は活断層の長さと地震規模の平均的な関係を導くものですが、人の命が掛かっている以上、平均ではなく、最大規模の地震が起きたらどうなるかをシミュレーションすべきではないでしょうか。もっと骨太の議論をするべきです。

なぜ、シンプルな判断ができないのか

――危険性を判断する裁判官のスタンスはどのようなものだったのでしょうか。 樋口:1970年代に原発訴訟は始まりましたが、やはり、時が経過するにつれて、本質からはだんだん外れてきたという印象があります。以前の判決を見て、「同じ争点」と「同じ基準」に従って判断してしまうようになりました。 その「同じ基準」でよく用いられているのが、先程述べた伊方原発最高裁判所判決の「裁判所は危険性そのものではなく、原子力規制委員会の立てた基準の合理性を判断すればよい」という基準です。この基準に則って判決を書くとすれば、危険性そのものではなく、原子力規制委員会の策定した規制基準が正当な手続を踏んだか、委員会の独立性が担保されていたか、学者の支持があったのかなど言わば形式的なことだけを審理の対象にすればいい。裁判官の仕事としてはこの方がラクなんですね。 しかし、原告が日本国憲法に基づいて人格権(※)を元に訴訟を提起しているのだから、原発が人の生命・身体にとって危険かどうか、という観点から判断すべきです。なぜ、そのシンプルな判断ができなくなってしまうのか、ということは、考えなくてはならないと思います。 (※)人格権=幸福追求権を既定する憲法13条、生存権を定める25条を根拠として認められるものであり、個人の人格的生存に不可欠とされる権利のこと

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――原発再稼働の動きが出ています。 樋口:再稼働を推進しようとする人たちは、原発の恐ろしさがわかっていないのでしょう。しかし、コスト面から考えても原発を再稼働させることは経済的に引き合いません。このことは、簡単な計算をすればわかることです。 東京電力の年間売り上げは5兆円で、利益率が5パーセントです。そうすると、年間利益は2500億円前後です。 今年7月に東京地方裁判所は、東電の旧経営陣に対して13兆円の損害賠償を命じる判決を出しました。13兆円は確定した損害額ですが、実際の損害額は25兆円に及びます。 つまり、東京電力は福島原発事故で100年分の利益を吹き飛ばしてしまったんです。仮に、東日本壊滅となったら、全ての大企業の100年分の利益がなくなってしまう。廃炉にかかる費用は福島の原子力発電所だけで70兆円と言われています。コスト面だけを考えたとしても原発は稼働させるべきではない。 ――今年6月、最高裁判所は国の責任を求める原発訴訟において棄却判決を出しています。 樋口:国の責任を認めなかった最高裁の裁判官は原発の本質をわかってません。一方で東電の旧経営陣に対し13兆円の賠償命令を出した裁判官は原発の本質がわかっています。 地裁判決の中で、原発の事故は「原子力発電所の従業員や周辺住民のみならず、地域の社会的・経済的コミュニティの崩壊や喪失を生じさせ、我が国そのものの崩壊にもつながりかねない」と述べています。それが原発の本質なんです。 <取材・文/熊野雅恵>
ライター、合同会社インディペンデントフィルム代表社員。阪南大学経済学部非常勤講師、行政書士。早稲田大学法学部卒業。行政書士としてクリエイターや起業家のサポートをする傍ら、映画、電子書籍製作にも関わる。
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