“テレビから消えた”ウーマン・村本大輔。ニューヨークに拠点を移した今、日本に思うこと
海外でスタンダップ・コメディに挑戦するウーマンラッシュアワーの村本大輔さんに3年間密着したドキュメンタリー『アイアム・ア・コメディアン』が全国で公開中だ。
――笑いのネタに社会問題を入れたるようになったのは、ABEMAのニュース番組『ABEMA Prime』での取材がきっかけとのことでした。
村本大輔(以下、村本):メディアで社会のことについて発言し始めたのは、フジテレビの「ワイドナショー」でした。「すべらない話」の打ち上げの時にプロデューサーの中嶋(優一)さんに「ワイドナショーに何で同期の西野(亮廣)が出てるんですか?僕も出して下さいよ」と冗談半分に聞いたんです。それで「しゃべれるの?」と聞かれて「できます!」と答えてしまって…。
それで番組からオファーが来るようになりました。そのたびに自分の周りの賢い友達に「今度こういうテーマについて話すのだけど、教えて!」と勉強していました。
それで、「ワイドナショー」の次に、「サンジャポ(サンデージャポン)」に出て、「朝生(朝まで生テレビ)」に出て、となりました。「知らないことは知らない」とはっきり言ったことが良かったみたいです。それで、ABEMAにも呼ばれるようになりました。
――現場取材をしてどのようなことを感じていましたか。
村本:今振り返ると、当時の生活は浮世離れしていたと思います。タクシーでテレビ局に運ばれて楽屋で待って番組に出る。そして、夜になったら、テレビ局の近くの六本木や麻布十番の店に行く。個室のレストランやちょっとラグジュアリーなところに行って、後輩と飲んだり、他の芸能人の人たちとしゃべったり。
住んでいるのは麻布十番や恵比寿、代官山辺りです。お上りさんなのでと浮かれてそういうところを選ぶわけですよね。テレビ局と飲食店、自宅を行ったり来たり。ずっとこの繰り返しでした。
ところが、ABEMAの番組で被災地や沖縄の訪問をして、初めて市井の人たちの実態を知りました。お金がない人や、苦しい思いをしている方々の思いに触れました。そして、社会にはこんなにいろんな色の人がいる、グラデーションがあるということを知ったんです。
それから、ABEMAで被災地や沖縄に行って取材し、一方で、ネタを作ってテレビに出る日々が始まりました。
2013年に漫才コンクール「THE MANZAI」で優勝後、1年間で250本を超えるテレビ番組に出演。ところが、笑いに政治ネタを入れ始めてからその数は急落。2020年は1本となり、日本のテレビから消えた。前後編のインタビューの前編では、活動の拠点をNYに移した現在、どのようなことを感じているのか。村本さんに聞いた。
きっかけは「ワイドナショー」
当時の生活は浮世離れしていた
ライター、合同会社インディペンデントフィルム代表社員。阪南大学経済学部非常勤講師、行政書士。早稲田大学法学部卒業。行政書士としてクリエイターや起業家のサポートをする傍ら、映画、電子書籍製作にも関わる。
記事一覧へ
記事一覧へ
この記者は、他にもこんな記事を書いています
ハッシュタグ