少年院上がりの元ヤンキーがブラジルで新聞記者になるまで
元暴走族で少年院にも入っていたヤンキーが、日本からは遠く離れたブラジルの地で新聞記者になった、と聞けば驚くに違いない。その男こそ、“ブラジル番長”こと吉永拓哉氏だ。
彼と知り合ったのは、15年以上前まで遡る。当時、サンパウロ新聞に勤めていた吉永氏から「旅行作家の嵐さん(筆者)を取材させてください」と連絡を受けたのだ。現地の日系ペンションで出会ったときの第一印象は、プロレスラーの武藤敬司に似ていてガラが悪い……。
「グレ始めたのが中学1年生の時ですね。博多の俺のまわりの地区は不良をやっているのが多くて、自然と、何の疑いもなくヤンキーになっていました。暴走族に入ったのは16歳の時ですね」
吉永氏がその道に足を踏み入れたのは、“なりゆき”だったという。暴走族は15人程のメンバーで、役職は「副総長」であった。
「実は、副総長が一番リスクが低いんですよ。総長は一切の責任を負うし、親衛隊長は総長を守るのが任務なので、体を張るので大変。特攻隊長は喧嘩が起きれば真っ先に戦わなくてはいけないんです。その点、副総長はなんか偉そうだしラクそうだったんで(笑)」
暴走行為、暴力沙汰はもちろん、薬物まで……悪行の限りを尽くしたが、案の定、九州でいちばん厳しい少年院に入ることになった。それまで自由奔放に生きてきたぶん、自由の無さに驚いたという。一切の私語は禁止で、トイレは一日4回まで。水も一日4杯という規則があった。
とはいえ、少年院で過ごした経験が記者として重要な文章力の礎になったという。
「少年院って、反省文を書かされるのですよ。最初は勉強なんてしていないから1、2行で終わっていたのですが、あまりに暇だったので。文字を増やすうちに文章力がメキメキ上達して、教官に褒められるようになりました。不思議と褒められるとやる気が出るし、新しい単語や言い回しを覚えることが楽しくなったんです」
ある日、少年院まで面会に訪れた父親から唐突にこんなことを言われる。
「お前、南米で修行して性根を改めて、叩き直してこい」
実は父親は若い時分、南米に渡っていたといい、移民たちから多くのことを学んでいたのだという。面会には教官も立ち会っており、出所後のステップを決めなければ少年院から出ることが出来ない。つまり、ほかに選択肢はなく、「わかった、俺行くよ」と即答するしかなかったのだ。
「南米と言われても全くピンとこなくて。どんな場所なのか、言葉もわからない。でも不安はなくて。計画を立てることもなく、とりあえず向かうことにしました」
普通は少年院を出たばかりの若者が、日本から遠く離れた未知の場所である南米に行くことになったら、ビビって縮み上がる違いない。だが、不安は微塵もなかったという。
「何も考えてなかったですね。当時流行っていた『たまごっち』ばかり機内でやっていたし、向こうに着いてからもそればっかりで」
大物なのか馬鹿なのか……深く考えてはいなかったようだ。
1997年、エクアドルのバナナ農園で修行を開始した。言葉は生活するうちに自然と覚えていった。
その後、ペルーなど南米の各地を転々、3年間に渡って放浪した。ブラジルの地方都市でラブホテルの従業員として働いているうちにブラジルが好きになり、のめり込んでいったらしい。
現在、筆者は世界一周旅行中だが、久しぶりに彼とサンパウロで合流した。そんなわけで、今回は吉永氏がヤンキーからどのような経緯でブラジルで新聞記者になったのか聞いてみたい。
少年院の暇な時間で文章力が磨かれた
不良少年がなぜブラジルで記者に?
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旅行作家、旅行ジャーナリスト。著書の『ブラックロード』シリーズは10冊を数える。近著に『ウクライナに行ってきました ロシア周辺国をめぐる旅』(彩図社)がある。人生哲学「楽しくなければ人生じゃない」
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『ヤンキー記者、南米を行く』 元暴走族副総長で少年院生活を送った著者が、なぜか“南米武者修行の旅”へ…。その後、紆余曲折を経てブラジル『サンパウロ新聞』記者として活躍する元ヤンキーの感動と笑いのノンフィクション! |
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