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ボブ・ディランを「傲慢だ」と言うほど、ノーベル賞はご立派な賞なのか?

 ノーベル文学賞受賞決定以降、その行動が様々な憶測を呼んでいるボブ・ディランだが、ここへ来て事態が動きつつある。ついに沈黙を破り、公式サイトで「ノーベル文学賞受賞者」の称号を受け入れたかと思いきや、わずか1日で撤回。ディラン自らの指示により削除されたとの報道もある。  こうした態度にしびれを切らしたノーベル賞委員の一人が、「ディランは無礼で傲慢だ」とコメント。混迷の度合いは深まるばかりだ。

「ディランが喜んでいるか」を議論しても意味がない

 もっとも、いまもってディランの真意は測りかねるところだ。ワイシャツを脱いで「Like A Rolling Stone」を歌う行為(※)ひとつとっても、喜びの表現に見える反面、「下着(シャツ)なしでジャケットを着るぐらいにアホらしい」とおちょくっている。そんな理解も成り立つからだ。 (※受賞発表翌日、10月14日のステージで3年ぶりに「Like A Rolling Stone」を歌ったことで「ほらディランも本当は喜んでる」と言う人が続出した)  ここまで来たら具体的なメッセージを期待しても無駄だろう。委員会からの連絡を無視し続け、一度掲げた「受賞者」の肩書をわざわざ外す。それらの事実から、12月10日を楽しみに待つほかない。  なので、ここからは角度を変えて考えてみたい。これまでは、“なぜディランがノーベル賞にふさわしい(ふさわしくない)のか”といった点から、ディランの真意を推察する議論がほとんどだった。  だがノーベル文学賞の経緯を振り返ると、逆の視点が必要に思われる。つまり、ノーベル賞はボブ・ディランを評価できるほど立派な賞なのだろうか、と。

しょせん時流に左右されるノーベル賞

 そこで英テレグラフ紙電子版の『ノーベル賞からひどい扱いを受けた10人の大作家』を見てみたい。そうそうたる顔ぶれなのだ。
10 great writers snubbed by the Nobel Prize

テレグラフ「10 great writers snubbed by the Nobel Prize」。トルストイにも授賞しそこねた

 まず思想的に問題ありとの理由で落選した中には、トルストイホルヘ・ルイス・ボルヘスらがいる。特にチリのピノチェトやスペインのブランコといった独裁者を支持したボルヘスに対しては、ノーベル委員会は「好ましい思想の傾向に基づいた、偉大な作品に授与すべき」との姿勢を明確にしたという。作品よりも優先されるべき事柄があると、公に認めたのだ。  さらにプルーストジョイスナボコフなどを評価し損ねている点にも触れておかねばならないだろう。そしてディランと同じアメリカ人作家で言えば、トウェインヘンリー・ジェイムスがいない代わりに、トニ・モリスンが受賞している点にも触れておかねばなるまい。  モリスンが黒人女性でなくても、受賞していたと断言できるだろうか?(つまり彼女は最も白人男性的な理由づけによって認められたとも言えるのだ。)  もちろん、完全に政治色のない褒賞などあり得ない。だが、その基準が時勢によって容易に変わり得るものであることは押さえておく必要があるだろう。

なんでホメロス?言い訳がましい授賞理由

 それゆえに、ディランの授賞理由も一見納得できるようでありながら、よく読むと文化的概略の説明に終始しているように見える。サラ・ダニウス事務局長は太古の詩人まで引き合いに出し、こう評した。 「楽器の伴奏とともに演じられ、声に出して読まれたホメロスやサッフォーの詩は現代まで生き残り、私たちは彼らの作品を楽しんでいる。その意味するところは、ボブ・ディランは詩人として評価するに値する人物であるということなのだ」。  この上ない褒め言葉とも思えるが、むしろ“なぜ歌手に与えるのか?”という批判をかわす狙いがあったと見る方が自然だろう。おそらくハンク・ウィリアムスすらロクに聴いたことがなく、ブラインド・ウィリー・マクテルとブラインド・ウィリー・ジョンソンの区別も付きそうにない人たちがディランを論じるには、こうするしかないという苦肉の策だったのではないか。
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ノーベル委員会よりも、本質を突いたディラン評
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ボブ・ディラン自伝

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