更新日:2022年07月15日 17:28
スポーツ

ショーン・マイケルズのボーイ・トーイ自我――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第128回

 AWAのボス、バーン・ガニアがこのふたりのために用意していたリングネームはミッドナイト・ロッカーズ。ミッドナイト・エキスプレス(ボビー・イートン&デニス・コンドリー)、ロックンロール・エキスプレス(リッキー・モートン&ロバート・ギブソン)という1980年代を代表する名タッグチームのネーミングとコンセプトをちゃっかり拝借したタッグチームだった。  マイケルズ&ジャネッティのコンビがAWAをツアーしたのは1年ほどで、1987年8月にWWEと契約。しかし、このときはツアー中の“素行不良”が原因でわずか2週間で解雇。翌1988年、改めて再契約を結んだ。このとき、マイケルズは23歳、ジャネッティは28歳。チーム名からは“ミッドナイト”が外され、ザ・ロッカーズが正式名称となった。  ロッカーズが80年代トレンドのアイドル系タッグチームとして活動したのはそれから約3年間。しかし、ふたりは1991年11月、“仲間割れ”という形でコンビを解散し、マイケルズだけがシングルプレーヤーに転向した。WWE首脳部はマイケルズとジャネッティの“バラ売り”ではなく、あくまでもマイケルズの“ソロ活動”にゴーサインを出した。  このあたりの“人選”は、“ヒットマン”ブレット・ハート&ジム・ナイドハートのハート・ファウンデーションがタッグチームとしての活動を休止し、それまではどちらかといえば“無印”だったブレットがシングルプレーヤーとしての道を模索しはじめたときのいきさつとひじょうによく似ている。
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ヒールとしての自我にめざめたマイケルズ
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