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“元祖”レーザー・ラモンがデビュー!――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第135回

 NWAフロリダ―NWAクロケット・プロをサーキット後、クロケット・プロのプロデューサーだったダスティ・ローデスのブッキングでNWAセントラル・ステーツ(カンザスシティー)に転戦。ここで大型タッグチーム、イーグル&コヨーテのアメリカン・スターシップに変身した。イーグルがのちのダニー・スパイビーで、ホールはコヨーテを名乗った。このタッグチームは約半年で解散し、ホールはシングルプレーヤーとしてAWAと契約した。  AWAのボス、バーン・ガニアはスーパーヘビー級のホールをWWEへ移籍したハルク・ホーガンの後釜的な“大型ルーキー”として売り出した。1986年、ホールはカート・ヘニングとのコンビでジミー・ガービン&スティーブ・リーガル(WWEのウィリアム・リーガルとは別人)を下しAWA世界タッグ王座を獲得したが、翌1987年にAWAを退団した。  1987年から1990年までの4年間はフリーエージェントとして新日本プロレス、ヨーロッパ(オットー・ワンツ派)、プエルトリコをツアー。ヨーロッパ時代はヨーロピアンが考えるところの典型的なアメリカ人、カウボーイ・スタイルのテキサス・スコットなるキャラクターを演じ、ドイツ、オーストリアの長期トーナメントでは海外武者修行時代の船木誠勝と寝食をともにした。  アメリカに帰国後、1991年にWCWと契約し、ここでダイヤモンド・スタッドなる新キャラクターに変身した。口ひげを剃り、カールのかかった栗色の地毛を真っ黒に染め、髪をグリースでベタベタにし、つまようじを口にくわえてスペイン語なまりのブリークン・イングリッッシュをしゃべった。ホールにとってはこれがデビュー以来、初めてのヒール体験で、このダイヤモンド・スタッドこそレーザー・ラモンの試作品だった。
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