WWE日本公演“マニア・ツアー”――フミ斎藤のプロレス読本#061【WWEマニア・ツアー編エピソード1】
―[フミ斎藤のプロレス読本]―
199X年
ショーン・ウォルトマンは、ホテルにチェックインし、部屋に入って大きなスーツケースを床に寝かせると、かたっぱしからローカルの友だちに電話をかけた。トーキョーはこれで9回めだ。最後に来たのはもう1年以上もまえのことになる。
ルーキーだったころはライトニング・キッドというリングネームでアメリカじゅうのインディペンデント団体のリングに上がっていたが、メジャーリーグWWEと契約して1-2-3キッドに改名した。レスラー仲間からは“キッド”と呼ばれている。
キッドというニックネームはそう悪くない。いつもまわりにいる30代のボーイズとくらべたら、まだほんとうに子どもみたいなものだ。
ショーンは、15歳のときにハイスクールをドロップアウトしてプロレスラーになった。両親はプロレスの世界に入ることに大反対だったから、けっきょく家を飛び出すしかなかった。
ホームタウンのフロリダ州タンパの名門レスリング・スクール“マレンコ道場”でプロレスの手ほどきを受けた。校長のラリー・マレンコさんが2000ドルの授業料を免除してくれ、その代わりに道場のそうじや練習用具の整理整とんを手伝ったり、ケイコのときはみんなの“投げられ役”になった。
スクールをいちおう卒業し、プロレスラーとしてデビューしたあとは、ギグを求めて放浪した。太陽の街タンパ育ちのショーンがたどり着いたのは、北部ミネソタだった。
ミネソタに行ってみようと思ったのは、親せきの叔父さんがミネアポリスに住んでいたことと――映画のなかでしか見たことがない――雪にさわってみたいと思ったからだった。
ミネアポリスでガールフレンドのテリーと出逢い、長男ジェシーが生まれ、それからちゃんと結婚した。19歳でパパになったショーンは、とにかく必死になって仕事を探した。ユニバーサル・プロレスリングというインディー団体とコネクションができて、1年に5回も6回もアメリカと日本を往復していたのはこのころだ。
あんなにやせっぽちだったショーンがWWEのリングに上がることになるなんて奇跡みたいなおはなしだった。ワールド・レスリング・フェデレーション(当時)は、世界でいちばん大きなプロレス団体。本拠地はニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデン。プロレスラーだったら、だれもがあこがれるひのき舞台である。
ショーンは自分の家で編集したVHSのデモ・テープ、プロフィル、ポーズ写真の“面接キット”を何度もコネティカットのWWE本社に送り、オフィスに電話を入れ、かなり強引にオーディションを受けさせてもらった。
ニューヨークまでの往復の航空チケット代は自分持ちだったけれど、テスト・マッチでレーザー・ラモン(スコット・ホール)にまさかのフォール勝ちを収め、メジャーリーグの契約書を手にした。
“1、2、3”はレフェリーが3回マットをたたくときのあの独特のリズム。ショーンはあの瞬間、1-2-3-キッドに変身したのだった。
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