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『2011年の棚橋弘至と中邑真輔』に見るノンフィクションの在り方とは? 柳澤健インタビュー

 プロレス・ノンフィクションの代表的な書き手はふたりいる。柳澤健と、田崎健太だ。  柳澤健は自著『1984年のUWF』(文藝春秋)に関して前田日明から猛烈な批判を受け、田崎健太は「KAMINOGE」に連載中の『真説・佐山サトル』に関して佐山聡から絶大な信頼を得ている。  なぜ、柳澤は執筆対象者に批判され、田崎は称賛されるのか? それはおそらく、二人のノンフィクションへの考え方に違いがあるからだろう。 「田崎さんは人間を書く。私は現象を書く」と柳澤健は言う。 『1976年のアントニオ猪木』ではアントニオ猪木、『1964年のジャイアント馬場』ではジャイアント馬場、『1985年のクラッシュ・ギャルズ』では長与千種、『1984年のUWF』では佐山聡――。柳澤健の著書の多くは、ひとりの人物に焦点が当てられているような印象を受ける。だが、じつは彼が書こうとしているものは、人物そのものではない。偉大な人物が作り出した現象であり、時代の空気感なのだ。

柳澤健氏

「猪木寛至や馬場正平の人間性には、さほど興味がない。けれど、アントニオ猪木、ジャイアント馬場には大いに興味と関心を持っています。田崎さんが『真説・長州力』で、プロレスラーという虚像を演じた人間・吉田光雄を克明に描いた。私にはない取材力で。そのことには敬服しています。でも、私が書くならば吉田光雄ではなく、長州力というプロレスラーがどのように観客の心をつかんだかを書いたはず。なぜならば、当時のプロレスファンは、吉田光雄ではなく、長州力を見に行っていたからです」  前田日明は『1984年のUWF』について、「柳澤健という著者によるフィクション」だと言い、「事実関係に曖昧なところがある」と批判する関係者が少なからずいた。その一方で、『1984年のUWF』によって初めてUWFの全容を掴んだという読者の感想も数多く聞いた。  フィクションとノンフィクションの境目はどこにあるのか? ノンフィクションとはどういうジャンルなのか? 柳澤健に聞こう。 「ノンフィクションは、結局のところ説明です。実際に起こった多くのできごとを矛盾なく説明するものでなくてはならない。発言集や、証言集にそれはできない」  ある人にインタビューをして、発言をそのまま記事にする。本人の証言である以上、間違いはないだろう、と読者は考える。ところが、間違いないはずの当人の証言が、往々にしてほかの関係者の証言と矛盾する。『証言UWF 最後の真実』(宝島社)はまさにそのような証言集だった。  読者はある現象、ある疑問に関して納得のいく説明を求める。求めないならばどうして本など読むだろう。だが、発言集は多くの矛盾をいつまでも解消してくれない。いまのメディアは、矛盾を解消して納得のいく説明を読者に提示しようとする努力を怠っている、と柳澤氏は指摘する。 「例えば映画だと、アップもあるし、引きもあるし、走っている人をカメラが横から並走することもあるし、俯瞰で撮ることもある。いまの記事の作り方って、カメラを取材対象者に固定して『ハイ、喋ってください』というだけ。実に単調なんです」
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新日本プロレスの復興という“現象”
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2011年の棚橋弘至と中邑真輔

プロレス再生の物語

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