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黒いホステスはニキビ少年に言った「頑張ったって仕方ない」――爪切男の『死にたい夜にかぎって』<第2話>

 体全体が痺れているのがわかった。顔から落ちた衝撃で口の中がザクロのように切れている。血の味しかしない。骨は折れていないようだが、すぐに立ち上がることはできそうもない。その場に座り込んだ私の横を参加者達が無慈悲に走り去って行く。

 綺麗に清掃された真っ白な石畳の上に血の唾を何回も吐き出す。染まれ、朱に染まれ。調子に乗って、久しぶりに本気で走ってみたらこのざまだ。クソが。参道の応援客が無責任に「頑張れ! 頑張れ!」と機械のように声援を送ってくる。血を出している奴に頑張れとか言うな。俺は大仁田か。クソが。どんどんと心が闇に落ちていく私の肩を誰かが叩いた。係員が治療にでも来てくれたのかと思って振り返ると、服の胸元がV字に大きく開き、おっぱいが半分以上見えている麻木久仁子似のグラマラスな女がそこにいた。黒のワンピースドレスがよく似合っているホステス風のお姉さんだ。少し鼻にかかったセクシーな声で私に話しかけてきた。

「お兄ちゃん、大丈夫? 口から血出てるよ?」

「……たいしたことないです」

「よかった。目の前で派手に転ぶから笑っちゃったよ」

「……」

「まだ走るの?」

「先生に怒られるから」

「やめちゃいなよ」

「え」

「もう頑張るのやめちゃいなよ」

「……」

「やめちゃえ。こんなことで頑張ったって仕方ないよ」

「……」

「返事しないんだ。かわいいね。これで血拭いて」と黒いホステスはピンク色をした花柄のハンカチを渡してきた。

「いりません! さようなら!」

 三歳の時に母親に捨てられた。母親の写真は一枚も残っておらず、母親の顔とぬくもりを知らずに育った。そんな私にとって、「頑張らなくていい」なんて優しい言葉をかけてくれる、自分のすべてを許してくれる菩薩のように母性溢れる女性は恐怖でしかなかった。その場から脱兎のごとく逃げ出して、無我夢中でゴールまで走り抜けた。最終成績は中学の部で百人中三十位ぐらいだったと思う。

 ふもとで私を待っていたのは顧問の先生からの激しい叱責だった。途中でコケてしまったことを説明したが、「それはお前の心の甘さに原因があったんだ」と頭にゲンコツをもらった。ろくなもんじゃねえ。体のあちこちから鈍痛がしはじめる。口の中の血もまだ止まっていない。頑張って完走したのにいいことなんて一つもなかった。あのホステスの言ってた通りじゃないか。家路につこうとした私に「坊ちゃん! お疲れさん!」と言って、レツゴー正児が参加賞のお守りを渡してきた。彼の満面の笑みが癪に障った私は、「お前! おもんないんじゃ!」と悪態をつき、お守りを受け取らずに帰った。ハンカチもお守りも受け取らず、人の好意をすべて踏みにじった最悪の一日だった。

 その日から、私は頑張ることを真剣にやめた。どうしても頑張らないといけないこと以外は頑張らない。それ以外の選択肢はすべて楽な方を選ぶようにした。ホステスに言われた通りに生きてみようと決めたのだ。翌日、陸上部を辞めた。顧問の角刈り先生にこっぴどく叱られたが、今まで白黒だった世界がカラーの世界になったように全てが変わったことを覚えている。

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「出世の石段」の真ん中辺りで私たちは仲良く座っている

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死にたい夜にかぎって

もの悲しくもユーモア溢れる文体で実体験を綴る“野良の偉才”、己の辱を晒してついにデビュー!





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