黒いホステスはニキビ少年に言った「頑張ったって仕方ない」――爪切男の『死にたい夜にかぎって』<第2話>
私の地元の香川県にも石段で有名な神社がある。「こんぴらさん」の愛称で親しまれる金刀比羅宮だ。全国にある金刀比羅、琴平、金比羅神社の総本宮でもある金刀比羅宮は、本堂に行くまでに七百八十五段、その先にある奥社まで行くには千三百六十八段もの石段を上らないといけない。「出世の石段」のように一気に上る必要はない。途中で休憩できる場所も多数設けられているし、参道の両脇には緑豊かな木々が生い茂っており、訪れた参拝客の目を潤してくれる。たくさんの土産物屋が軒を連ねる賑やかな通りもあって退屈しない。急勾配となっている難所も多数あるため、本堂にたどり着くまでに一時間以上を要するし、奥社まで進む頃には足腰が悲鳴をあげることになる。
そんな金刀比羅宮にまつわる名物行事で「こんぴら石段マラソン」というものが毎年開かれている。ふもとから本堂までの七百八十五段を走って上り、本堂で祈りを捧げてから、またふもとまで戻ってくるというものだ。速さを競うレースではなく、あくまで完走を目指すことが目的であり、子供からお年寄りまでさまざまな年齢の方が参加できるイベントとして人気である。
中学二年生の頃、一度だけ、この「こんぴら石段マラソン」に参加したことがある。当時、陸上部に所属していた私は、顧問の角刈り先生の命令で参加を余儀なくされた。和気あいあいとしたゆるいイベントのはずが、部活の一環で参加している私にだけは、中学の部の三位以内に必ず入れという高難度のミッションが課せられていた。開会セレモニーにて、「我が町出身のお笑い芸人さんがゲストに来ております!」というアナウンスに会場が一瞬どよめく。満を持して姿を現したのは、トリオ漫才で有名なレツゴー三匹のレツゴー正児だった。いつものように「三波春夫でございます!」と大声でボケたものの、両サイドから突っ込んでくれるジュンと長作がいないので、三波春夫のままで終わってしまった。自分が生まれた町で何をやってるんだ。
クラスで一番足が速かった小学生の頃は、それだけで女の子にモテた。中学では陸上部に入部し、短距離専門の選手として日々の練習に励んだ。だが、運動能力だけでは女の子の興味を引けなくなった。さらに不運なことに、私の顔はおびただしい量のニキビで覆い尽くされてしまい、ルックスでモテる可能性も失ってしまった。顔中ニキビだらけなのに運動能力はスーパーヒーロー並みに高いことから「ニキビマン」というあだ名を付けられた。悲しみを抱えて戦う我らがヒーロー、ニキビマン。やがて、ニキビマンは全力で走ることをやめてしまう。ニキビ面が速く走ると余計に気持ち悪がられることに気付いたからだ。同じブサイクなら動くブサイクよりも動かないブサイクの方がまだマシである。自分のルックスに合わせてあからさまに手を抜いて走る私は、陸上部のお荷物部員として顧問の先生に目を付けられるようになった。
いよいよ出走時刻。スタート地点で睨みを利かせている顧問の先生に怒られないために、最初だけは全力で走ることにした。スターターのピストルの音と同時に勢いよく飛び出し、先頭集団に食らいついていく。我ながら名演技だ。あとは適当に流してゴールすればいいと思っていたが、その目論見は外れてしまう。走ることの意味を見失ったまま惰性で陸上を続けていた私だったが、この石段マラソンは非常に楽しかったのだ。競技場のトラックのような決められたコースではなく、参道という非日常的なコースを走ることの興奮で、体中の血が滾たぎるのを感じた。鬼ごっこをして遊んでいる子供のような無邪気な気持ちになる。走っていてこんなに気持ちいい風を感じたのは小学生の時以来だ。沿道に立つ応援客のあたたかい声援も嬉しかった。部活でもクラスでも家でも、私に声援を送ってくれる人など誰一人いなかったのだから。私はもう少しだけ全力で走ってみることにした。
快調なペースで上りのコースをクリア。本堂でお祈りを済ませて折り返しだ。下りのコースに入った時点で中学生の部では上位三位に入っている。角刈り顧問の満足そうな顔が浮かぶ。私は自分の意志で三位以上を目指してみたくなった。多少の危険はあるが、大幅な段飛ばしで一気に石段を駆け下りれば優勝の可能性だってある。覚悟を決めた私は、五段飛ばしの大股ステップで石段を下りることにした。前を走るライバルとの距離をぐんぐんと詰め、ゴールまであと少しという地点でついに一位に躍り出た。このまま逃げ切れば優勝だと気を抜いた瞬間、右足の靴紐がほどけて空中でバランスを崩してしまった私は、二メートルぐらいの高さから参道の石畳の上に打ち付けられた。ニキビマン、石畳に死す。
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『死にたい夜にかぎって』 もの悲しくもユーモア溢れる文体で実体験を綴る“野良の偉才”、己の辱を晒してついにデビュー! |
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