更新日:2022年12月10日 18:53
スポーツ

フリッツ・フォン・エリック “鉄の爪”アイアン・クローの悲劇――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第21話>

 1975年8月にはプロモーターとしてNWA会長に就任し、翌1976年には長男(じっさいは次男)ケビン、1977年には次男デビッド、1978年には三男ケリーがそれぞれデビュー。テキサスに“エリック王国”が誕生する。  エリック兄弟はアイドル系レスラーとして大ブレイクし、毎週金曜夜のスポータトリアム定期戦がダラスのプロレスファンの新しいトラディッションになった。  1981年にはテレビ番組“ワールドクラス・チャンピオンシップ・レスリング”を放送していたダラスのローカル・テレビ局がケーブル化し、エリック兄弟を主人公とした1時間番組が全米で放映されるようになった。  スタジオ・マッチではないアリーナ収録の試合、音楽と試合映像をミックスした1980年代スタイルのプロモーション・ビデオをいちばん最初にプロレス番組に導入したのはWWEではなくダラスだった。  再び悲劇が家族を襲う。デビッド・フォン・エリックが遠征先の日本で急死した(1984年2月2日)。  それが父親としての行動だったのか、プロモーターとしての感覚だったのかはさだかではないが、エリックはそれから3カ月後にテキサス・スタジアムで“デビッド・メモリアル”なるビッグイベントを開催。  メインイベントではケリー・フォン・エリックがリック・フレアーを下しNWA世界王座を手にした(1984年5月6日)。売店では値上げされたデビッドのグッズが販売された。なにかが狂いはじめていた。  エリックは1986年にNWAを脱退し、WCCW(ワールドクラス・チャンピオンシップ・レスリング)はメジャー団体として再スタートするが、翌年、四男マイク・フォン・エリックが薬物自殺(1987年4月12日)。  それから4年後にはデビューしたばかりの21歳の末っ子クリスもピストル自殺(1991年9月12日)。  ケリーは1990年から1992年までテキサス・トルネードのリングネームでWWEに在籍したが、コカイン不法所持で医薬品の処方せん偽造の罪で実刑判決を受けた直後、ピストル自殺をとげた(1993年2月18日)。これが“エリック王国”の終えんだった。  たったひとりのサバイバー、ケビン・フォン・エリックのふたりの息子たち、長男ロス・フォン・エリックと次男マーシャル・フォン・エリックはプロレスの道を選択し、2012年(平成24年)1月、プロレスリング・ノアに入団。  “鉄の爪ストーリー”は、その“エピソード3”がスタートした――。 ●PROFILE:フリッツ・フォン・エリックFritz Von Erich 1929年8月16日、テキサス州ジューウィット生まれ(メディア向けのプロフィルはダラス出身)。本名ジャック・アドキッセン。ハイスクール時代からフットボールと陸上競技(円盤投げ)で活躍し、フットボール奨学金を取得してフットボールの名であるサザン・メソディスト大学に進学。CFLエドモンドン・エスキモーズに在籍後、1952年のオフシーズンにG・キニスキーらとともにスチュー・ハートのコーチを受けプロレス転向。1953年、デビュー。デビュー当時は本名のままリングに上がっていたが、1958年、ニューヨークのバッファロー地区をツアー中にドイツ名のフリッツ・フォン・エリックに改名。NWAアメリカン王座を通算15回保持。1982年、引退。1986年、NWAを脱退しWCCWを設立。1997年9月19日、ガンで死去。享年68。 ※文中敬称略 ※この連載は月~金で毎日更新されます 文/斎藤文彦
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