ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー “生傷男”と“粉砕者”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第22話>
“生傷男”としての最後の武勇伝は、ブルーサー対ブルーザーのドレッシングルームの決闘だった。
正確な日付は記録されていないが、いまでも語りづがれている伝説によれば“1979年8月のある日”である。インディアナ州ピオリアのとある体育館のドレッシングームで、ディック・ザ・ブルーザーとブルーザー・ブロディが大ゲンカをした。
ブルーザーはブロディにファイトマネーを支払う立場=プロモーターで、ブロディは小切手をもらう立場=レスラー。
先に手を出したのはトシをとったブルーザーで、ケンカを受けて立ったのはブロディとされる。
ブロディがブルーザーの首ねっこをつかまえてロッカーにぶつけ、ブルーザーが脳天から流血した。おはなしの結末は、語り部によってちょっとずつ異なる。
50歳のブルーザーと33歳のブロディがボーイズのみているまえで派手に殴り合ったことだけは事実だろう。
ブルーザーもクラッシャーも、よれよれになるまでリングに上がりつづけた。
ブルーザー&クラッシャーとしての最後のタッグマッチは、ブラックジャック・マリガンBlackjack Mulliganとトリオを組んでジェリー・ブラックウェルJerry Blackwell&ケン・パテラKen Patera&シーク・アドナン・アル・ケイシーSheik Adnan-El Kaisseyと対戦した6人タッグマッチだった(1984=シカゴ)。
50代後半になっても冷蔵庫のような体つきと短めにカットしたブロンドの髪、殴る、蹴るのファイトスタイルは変わらなかった。
ブルーザーは1991年11月10日、ノドの動脈破裂による内出血と心臓発作の合併症で死去。ウエートトレーニング中に倒れた。享年62。
クラッシャーは1986年に引退後、ミルウォーキーに在住。WWEのハウスショーがミルウォーキーにやって来ると、ゲスト・リングアナウンサーをつとめることもあった。
2005年10月23日、ミルウォーキー郊外の病院で脳腫瘍で死去。79歳だった。
●PROFILE:ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーDick The Bruiser&Crusher Lisowski
ブルーザーは1929年、インディアナ州インディアナポリス出身、本名ウィリアム・フリードリック・アフリス。1954年、デビュー。クラッシャーは1926年、ペンシルベニア州ピッツバーグ出身、本名レジー・リソワスキー。1949年、デビュー。1960年、ブルーザーとコンビ結成。AWA世界タッグ王座通算5回保持、WWA世界タッグ王座を保持。シングルプレーヤーとしてはAWA世界ヘビー級王者通算3回保持。
※文中敬称略
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文/斎藤文彦
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