スポーツ

ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー “生傷男”と“粉砕者”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第22話>

 ブルーザーとクラッシャーが初めて合体するのは1962年、AWAのリングだった。  AWAのボス、ガニアがブルーザーの相棒としてブルーザーとそっくりのクラッシャーをプロデュースし、シングルプレーヤーだったブルーザーをタッグチーム部門にシフトチェンジさせた。このときクラッシャーは36歳で、ブルーザーは33歳だった。  ブルーザー&クラッシャーの名コンビはその後13年間で通算5回、AWA世界タッグ王座を獲得するが、いつもタッグチームとして活動していたわけではなく、ふたりがコンビを組むのはじつは年に数回だけで、その計算された“希少価値”がこのチームのセールスポイントになっていた。  ファイトスタイルは殴る、蹴る、場外乱闘のワンパターンで、ブルーザーの十八番はトップロープからのアトミック・ボムズアウェー(フットスタンプ)、クラッシャーの必殺技はボロ・パンチ(右のアッパーカット)だった。  ホームリングのAWAではヒールではなくキャラクター・ベビーフェースという隔離されたポジションにレイアウトされていた。  ブルーザー&クラッシャーがタッグチームとして日本のリングに初登場したのは1969年(昭和44年)夏。ジャイアント馬場&アントニオ猪木のBIコンビを下してインターナショナル・タッグ王座を奪取した(8月11日=札幌)。  その後、国際プロレス(1972年=昭和47年10月)、全日本プロレス(1976年=昭和51年1月)にも登場したが、全盛期を過ぎてからの来日だったのがちょっと残念だった。  ブルーザーは、ガニアやシークと同様、この時代の地方分権システムのなかでみずからの地盤を築いたレスラー・プロモーターのひとりだった。  フレッド・ブラッシーから奪いとったWWA世界ヘビー級王座(1964年4月22日=ロサンゼルス)をホームタウンのインディアナ州インディアナポリスに持ち帰り、同名の新団体WWA(ワールド・レスリング・アソシエーション)を設立。  看板スター&プロモーターとしてこのローカル団体を1989年まで25年間、運営した。“インディアナポリスWWA”は“ロサンゼルスWWA”から枝分かれした団体だから、そのルーツはやはり“テーズ系譜”の黄金のチャンピオンベルトということになる。
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“生傷男”としての最後の武勇伝
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